例年通り、六代目山口組では12月5日から、各親戚団体が神戸市灘区にある総本部へと年末の挨拶に訪れる期間がスタートした。実際に、総本部を訪れた親戚団体のトップや最高幹部らの姿は、新神戸駅で待ち構えていた報道関係者らにも確認されているのだが、訪問2日目となった6日、思わぬ事態が総本部で起こった。
香川県高松市に本拠地を置く二代目親和会・吉良博文会長が急な体調不良で卒倒され、緊急搬送されたのだ。
親和会は、山口組が全国へと進出し、周りが山口組勢力で固められるなかにあって、独立独歩の路線を貫き、2度にわたり山口組と「高松抗争」と後に呼ばれる抗争事件を起こしている。その抗争で、いわゆるジギリ(組織のために身体を張って刑務所へと服役すること)をかけたのが、吉良会長なのだ。また、この抗争に起因する懲役で、二代目親和会会長代行と六代目山口組系光生会若頭(当時)が、刑務所内において義兄弟となったことから、後の山口組との親睦へとつながっていったといわれている。
「大抗争の経験者だけに、六代目山口組のみならず、他の団体からも吉良会長の安否が案じられている状況だ」(六代目山口組関係者)
その後、兵庫県警の捜査員も駆けつけ、突然の事態に総本部内は一時騒然となったのであった。
12月7日に盃事が重なった理由
明けて7日。大安となるこの日は、六代目山口組、神戸山口組ともに盃事を執り行っている。
六代目山口組では、二代目岸本組・清水武組長の死去に伴い【参考記事】、三代目を継承した野元信孝組長との盃直しが二代目竹中組内杉本組(岡山県)で執り行われた。
三代目となった野元組長は、五代目山口組当時に直参組織であった古庄三郎初代組長(引退)率いる古庄組(大阪府堺市)の出身で、古庄組長引退後に同組の若頭であった野元組長が二代目を継承し、岸本組へ加入。加入後は、若頭補佐を務めており、著者も現役当時、いくどかその姿を見たことがあった。
「若くしてプラチナ(直参)組織であった古庄組の若頭を務めていたことから、三代目に就任した野元組長は顔が広く、業界関係者の間でも知られた存在だ」(六代目山口組系幹部)
一昨年の六代目山口組分裂頃に、二代目岸本組若頭に昇進し、今回、六代目山口組直系組長に昇格を果たしたことになる。
一方の神戸山口組では徹底した箝口令が敷かれており、前日の6日まで盃事の開催地にさまざまな噂が飛び交っていた。これは昨今の神戸山口組を取り巻く警察当局の弾圧を意識したものと思われるが、時間が経つと神戸山口組傘下二代目西脇組で盃事を挙行させたことが明らかになった。
新たに神戸山口組・井上邦雄組長から盃をおろされたのは、今年になって、若中から舎弟に直った三代目山川組・大澤忠興組長と、同じく今年6月に直参へと昇格を果たした三代目古川組・仲村石松組長であった。
「当初は事始めの13日に当日に行われるのではないかとみられていたが、無用な混乱を避けるために盃の日程を早めたのではないか」(捜査関係者)
この盃事には、出席可能な神戸山口組執行部の面々が訪れたことが、詰めかけた報道陣や警戒にあたっていた警察当局に確認されている。
俠友会本部事務所が閉鎖に追い込まれるなど、警察当局の取り締まりが強まるなか、7日の大安に、各所から注目される盃事を比較的密やかに執り行ったのは、事始め式前に当局を必要以上に刺激させないためではないかとみられる。
対して、この時期に三代目岸本組が盃直しを執り行った理由は、13日に六代目山口組の事始めが行われることが理由だろう。例年、事始め式の開催前に、その年、直参へと昇格を果たした組長が、当代となる組長から盃をおろされる習わしがある。今回、三代目岸本組での盃を済ませたことで、13日に司組長より盃がおろされることになるのだろう。
13日には任侠山口組も兵庫県尼崎市で納会が開催されると見られており、それぞれの山口組がそれぞれの場所に結集することになるのではないか。
(文=沖田臥竜/作家)