【江川紹子の考察】「表現の不自由展」“施設利用可”の司法判断と、展示反対派の“過ち”
大阪市中央区で開かれていた『表現の不自由展かんさい』は、無事に3日間の日程を終えた。会場に突っ込もうとして警察官に取り押さえられた者がいたり、爆竹のようなものが入った郵便物が送られたりするなど、度を超えた抗議もあったものの、大阪府警の厳重な警備もあり、大きなトラブルはなかったようだ。
大阪地裁・高裁がともにくだした、「表現の不自由展」施設利用を認める司法判断
開催前、会場の大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者が展示会の利用予約を取り消したが、大阪地裁、大阪高裁が利用を認める司法判断を行い、開催にこぎ着けた。その後、最高裁も地裁、高裁の判断を支持している。
大阪地裁決定は、「利用を拒み得るのは…警察の適切な警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られる」と判断。展示会の実行委員会が最寄りの警察署に警備の依頼をし、その際、警察から「警備ができないとか、警備が困難であるというような意思表明がされたとは認められない」とも認定している。
さらに大阪高裁決定は、街宣車を使った抗議行動による騒音などについて、同府には騒音規制条例があり、違反する者には警察官が停止命令を出し、それに反した者は6月以下の懲役または20万円以下の罰金という罰則も定められていると指摘した。
過去の判例に則った、いわば当然の司法判断といえる。催しの主催者はすでに警察に警備の要請をしていた。不測の事態を恐れるのであれば、施設側や大阪府も警察に警備体制の強化を依頼していればよかったのである。現に、開催しても警察の警備が混乱を防いでいる。そういうやるべき対策をせず、最高裁に勝ち目のない上告までして、開催に抵抗した施設側の対応は、あまりに異様だった。
当初、施設側はこの催しを拒んでいなかった。裁判所が認めた事実によれば、経緯は次の通りである。
展示会の実行委員会のメンバーである大阪教育合同労働組合が施設の利用申し込みを行ったのは、今年3月6日。催しの名称は『表現の不自由展かんさい』とし、利用料金も支払った。
ネットなどでは、労働組合の名前で申し込んだので、施設側は「表現の不自由展」と知らずに受け付けたかのような言説も飛び交っていたが、これは事実に反する。また、「エル・おおさか」は労働組合や労働者のための集会や催し物の場を提供する施設であり、申し込みにはなんの問題性も見いだせない。
そして申し込み当日、施設側は利用承認書を交付している。
事態が動き出したのは6月4日。一部メディアが東京でこの展示会が開かれることを報じた。読売新聞には、こう書かれていた。
〈実行委によると、あいちトリエンナーレで抗議が殺到した、いわゆる慰安婦を象徴する少女像なども展示するという〉
これに誘発されたのか、東京で同展の開催が予定されていた会場には、同日から大音響の街宣活動が始まった。それを苦にした会場が提供を断り、開催は延期に追い込まれている。
同じ記事は、同紙大阪版にも掲載された。この日、施設側は申し込みを行った労組関係者を呼んで事情を聞き、同施設で行う催しも、表現の不自由展の実行委員会の主催であり、警察に警備を依頼したことなどを確認した。
同月15日から、実行委員会がFacebookなどで大阪展の広報を始めると、翌日から「エル・おおさか」に対する抗議の電話やメール、拡声器を使っての街宣活動が始まった。
そして同月25日、施設側は利用承認を取り消した。施設側の説明では、この日までにあった抗議は、電話とメールが70件程度、街宣活動が3回、とのことだった。
承認取り消しの背景には、吉村洋文・大阪府知事の意向もあったか
この承認取り消し処分には、吉村洋文・大阪府知事の意向も影響したと考えられる。規定でも、承認やその取り消しは知事の権限となっている。知事自身も、6月30日の記者会見で、事前に「あそこで行うことについての反対の意思は示しました」と認めている。
労組側からの法的措置についても、同知事は当初から、「徹底的に対応していきたい」と争う姿勢を鮮明にしていた。地裁で施設側が敗訴した際には、「(利用取り消しは)裁量の範囲内」「高裁の判断を仰ぎたい」と、さらに争い続ける方針を明らかにした。施設側が最高裁まで争ったのも、この知事の意向が反映されているに違いない。
吉村知事は、同施設での開催を阻止する意思を鮮明にする一方で、抗議をしている側については当初、まったく批判をしなかった。心情的にはむしろ共鳴していたからだろう。これまでも、彼はこの催しに対する嫌悪感を隠そうともしていない。それが行き過ぎて身内からたしなめられることもあった。
たとえば、あいちトリエンナーレで展示が公開中止になった時。吉村知事はこの展示を「反日プロパガンダ」と非難したばかりか、大村秀章・愛知県知事について「知事として不適格」と述べ、辞職相当と主張した。これには、展示には批判的だった日本維新の会代表の松井一郎・大阪市長も、「言い過ぎだ」「大村知事の責任追及は愛知県議会の職務」と述べて、党としての軌道修正を図った。
大村知事のリコールを求める政治団体が設立報告会を開く際にも、そんな場面があった。団体代表の高須克弥氏から誘いのツイートを受けた吉村知事は、「公務」を理由に出席は断りながらも、「応援してます、なう。行政が税金であの『表現の不自由展』はさすがにおかしいですよね」と激励のツイートを返した。この時も、松井市長が「愛知の人が判断するべき。(大阪の)知事が旗を振るのは違う」とたしなめている。この知事リコールがその後どういう顛末をたどったかは、報道されている通りだ。
こうした吉村氏の姿勢は、抗議側の増長を許した可能性もある。吉村氏は早い時期に暴力的な抗議は許さないという姿勢を示さなかった。施設に「開催するのなら実力阻止に向かう」という脅迫文や「サリン」と書かれた紙と液体入りの袋が送りつけられ、ようやく「警察と情報共有して、届けをして厳正に対処していきたい。犯罪行為はやめてもらいたい」と述べるに至った。
個人がこの催しに嫌悪感を抱くのも、批判的な意見を持つのも自由だ。しかし、行政の対応が知事の個人的な感情や主張に影響され、やるべきことをやらず、表現の自由が侵害されるような事態は、あってはならない。吉村知事と大阪府は、3連敗となった各裁判所の判断を熟読し、対応を猛省してもらいたい。
こうした大阪府の姿勢を支持し、東京、名古屋、大阪の3会場への、大音響での街宣活動を含めた暴力的な抗議を容認し、東京会場の延期や名古屋会場の中止を肯定的に受け止めた人もそれなりにいた。彼らにも、こうしたやり方で表現活動を潰す愚かさを考えてもらいたい。
第一に、それは「表現の自由」の幅を狭める行為に等しい。自分が好ましくないと思う表現を潰してもよい、ということになれば、自分とは異なる価値観の人が行政のトップについた時に、自分が弾圧されても文句はいえなくなる。
あなたの考えには反対だ、しかしあなたがその考えを表現する自由は命がけで守る――いい古されたことばだが、そういう態度が社会の、そして自身の「表現の自由」を守ることを確認したい。
不自由展に出品されている、たとえば慰安婦少女像などは、美術品として価値が低く、芸術とはいえない、という声も聞く。だが、「表現の自由」を考えるにあたっては、作品の良し悪しは関係ない。芸術性の高い作品の「表現の自由」は守るが、低いものは展示や発表の場はどうでもいい、とはならない。個人のプライバシーの侵害や名誉毀損、あるいは業務妨害など犯罪になりうるものやヘイトスピーチは別にして、あらゆる表現の機会を守ってこそ、「表現の自由」が守られているといえる。
たとえ賛同できない表現行為であっても、彼らの表現の場は全力で守らなければならない
誰しも、自分が好ましいと思う表現について、その自由を求めるのは当たり前の心情だ。一方、そうでない表現行為の自由を語るのは、努力がいる。でも、だからこそ、賛同できない表現行為が抑圧や妨害を受けている時は、声を励まして、「表現の自由」を語らなければならない。
私自身も、率直にいえば、この催しについて、手放しで評価しているわけではない。あいちトリエンナーレでの展示を見たが、興味深い作品もあれば、大きな疑問符をつけたくなる展示もあった【詳細はYahoo!ニュース個人『「表現の不自由展」を報告する』上・下をご覧ください】。
会場に掲示されていた関連年表などの記載には問題点が多かったし、展示作品の選択の基準も不鮮明で、主催者の好みや主張が反映されすぎているように見えた。展示会そのものが主催者の作品と考えれば、それでもよいのかもしれないが、果たしてこうした展示で「表現の不自由」を語ってよいのかな、という疑問も湧く。
ただ、そういう違和感があったとしても、(いや、だからこそ)彼らの表現の場は全力で守らなければならない、とも思っている。この展示会のために、というより、この国の「表現の自由」を守るために、ここで沈黙してはならない。そう考えて、私は何度もこの問題に触れてきたし、今回も本稿を書いている。
先の先進7カ国(G7)首脳会議では、対中国ということもあって、「自由と民主主義、法の支配という普遍的価値」の大切さが強調された。日本も、そうした価値観を大切にする陣営のなかで、存在感を持とうと努めている。そんななか、自分とは異なる考えの「表現の自由」を潰してもいいという発想は、日本を貶めるものといえよう。
開催に反対し、妨害をも容認してきた人たちは、自分の好みでいっているのではなく、正当な理由があって批判している、といいたがる。
あいちトリエンナーレがすさまじい「電凸」に見舞われ、『表現の不自由展・その後』の展示が中断に追い込まれた時もそうだった。「公費を使って、このような展示をすることの是非が問われているのだ」などと述べ、妨害や攻撃を正当化する識者・論客がかなりいた。こうした論法を掲げた人たちから、「表現の自由」を求めた者は、ずいぶんと非難されたものである。
しかし今回、妨害や攻撃をする側の意図は結局のところ、気に入らない表現を潰したいことだけにあることは明らかになった、といえるのではないか。
東京展では民間のギャラリーを使用する予定で、公金とはまったく関係がなかったのに、開催ができなくなる状況に追い込まれた。名古屋展についても、あいちトリエンナーレでの展示反対派の急先鋒だった河村たかし・名古屋市長が記者会見で明確に「制作費を出すわけでもありませんし、税金を出すわけでもないと。主催事業でもありません」と述べていたのに、反対の街宣活動を受け、爆竹入りの郵便物による脅迫・業務妨害事件も起きた。大阪展も公金が使用される催しではなく、逆に主催者側が利用料を支払っている。
この催しが嫌ならば、見に行かなければいいのである。生活圏にいきなり壁画やモニュメントなどが現れるパブリックアートと異なり、美術館やギャラリーで行われる催しは、会場に出かけて行かなければ、接することは避けられる。
SNSで催しの宣伝が流れてきても、無視すればよい。「スルー力」に欠け、それでも不愉快だ、というのであれば、そのような情報の発信者はフォローしない、ブロックする、という対応で、自分の心を守ればいいのではないか。
展示を嫌う人たちの気持ちは尊重したい。だから、この催しを気に入っている人は、彼らを無理に誘ったり、「作品を見て議論すべきだ」などと挑発してはいけない。見るのもイヤ、という人に、それを強いるのはやめよう。
ただ、おせっかいかもしれないが、この催しを潰そうとしたり、それを応援した人は、一連の騒動が戦略としても大失敗であったと気づいたほうがいいのではないか。
一報的な利用承認取り消しや暴力的な抗議行動が、結果として「不自由展」の価値を高めた
東京、名古屋の2会場を巡る騒動に加え、大阪が最高裁まで争ったことで、この催しは各メディアで全国的に何度も報道され、注目を集めた。それを目にした人たちが、賛否は別にして、見てみたい、という好奇心が湧くのは不思議ではない。右翼の攻撃にあったり行政に弾圧されている者を励ましたい、と正義感が刺激された人もいる。もともと興味があり、一連の報道で開催を知って来てみた、という人も多いだろう。その結果、遠方からも人がやってきて、大阪会場は朝から長蛇の列ができ、連日完売したという。
何事も起こらず、静かに開かれていれば、ここまでの大盛況にはならなかったのではないか。やるべきことをやらずに一方的に利用承認を取り消した行政、暴力的な抗議行動をする人たち、さらにそれを応援する人々が、この催しの価値を大いに高めたのである。
大阪では、抗議する人と擁護する人が、施設前の大通りを挟んで激しく応酬する場面が展開された。こうした「表現の不自由との戦い」は、主催者が求める表現行為でもあろうから、開催を妨害した人たちは、それに一役も二役も買ったことになる。
重ねていうが、嫌い、という気持ちは大切にされるべきだ。また、抗議は意思表示のひとつである。そうした気持ちや意思を表現する自由も守られなければならない。だからこそ、あいちトリエンナーレから今回に至るやり方は、批判や抗議の手法として適切でも効果的でもなかったと、反省してもらいたい。