2018年に起きた神戸山口組結成後、業界関係者の間で、何度かその名称の復活が噂された組織があった。その組織が05年に解散した「中野会」だ。
五代目山口組体制で山健組傘下から直参へと昇格を果たし、渡辺芳則五代目組長の親衛隊として、一時は山健組と並ぶほどの勢力を保持していたのが、中野太郎会長率いる中野会であった。
結果的には名称復活は実現にこそ至らなかったが、仮に中野会の二代目体制が発足されることになったなら、会長に就任にすることになるだろうといわれた幹部が存在する。
「その幹部は、“中野会の牙城”ともいわれた京都を地盤に、中野会執行部の一翼を担っていた人物。一時は現在解散している直系組織に籍を置いていたといわれていたのだが、六代目山口組分裂後は、どちらかといえば、神戸山口組に近いと見られていた」(元中野会関係者)
先日、その人物が、六代目山口組傘下である二代目竹中組に加入したことが明らかになったのだ。
「聞くところによれば、加入した幹部からは六代目山口組執行部に対して『末席からスタートしたい』という申し出があったらしいが、さすがに数々の武勇を残した中野会の大幹部を本人の意向にしろ、組織の末端に迎えるわけにはいかない。結果として、安東美樹・二代目竹中組組長の舎弟で迎え入れられたようだ」(六代目山口組関係者)
安東組長率いる二代目竹中組といえば、六代目山口組分裂後に、二代目柴田会から名称変更を果たし、急速に組織を拡大させ続けている組織のひとつだ。
「六代目山口組分裂時、阪神ブロックに所属していた二次団体のほとんどが離脱を表明したのだが、当時、柴田会の二代目会長だった安東組長は六代目山口組を離脱しなかった。そのため、本家(六代目山口組)からの信頼も厚く、分裂後すぐには総本部の事務方を一任されていたほどだ」(六代目山口組系幹部)
この関係者によれば、安藤組長が事務方を担うようになってからは大幅なコスト削減に成功し、結果として、傘下組織が本家に上納する会費の減額にもつながったというのである。
謙虚で義理深い人柄が求心力の源か
一方で安東組長の武闘派ぶりは有名で、山口組史上最大の抗争事件と言われている「山一抗争」(1984年から山口組と一和会との間で起きた抗争事件)では、警察に警備されていた一和会会長宅を襲撃し、山口組史にその名を残す功績を挙げてみせたとまでいわれている。
その事件によって、長期服役を余儀なくされることになったのだが、武闘派でありながら人格者としても同業者からの評判高く、筆者が現役時代にもこういう出来事があった。
それは筆者が所属していた二代目大平組組長と若頭が同時に逮捕されたために、若頭代行だった筆者が六代目山口組の定例会に代理出席した際のこと。定例会の開催までの待ち時間に、同じく代理出席していた安東組長にこう話しかけられた。
「中村の叔父さんは出てこられそうですか?」
同じ代理出席といえども、安東組長と筆者では年齢も違えば、貫目ももちろん違う。そんな著者にまで丁寧な言葉で接してくれ、著者の親分である中村天地朗組長の安否を気にかけてくれていたのだ。
その後、瞬く間に直参へと昇格を果たし、六代目山口組最高幹部へと駆け上がっていくことになるのだが、直参へと昇格してからも総本部を後にする際、他の直参組長が乗る車両と重なれば、必ず先輩となる直参組長の車両に進路を譲っていた姿が鮮明に残ってる。
それ以外にも四代目山口組・竹中正久組長の祥月命日には直参へと昇格する以前より、必ず墓参へと訪れ、居住まいを正されていたことが印象深い。直参昇格後は、最高幹部や直参組長らが墓参をすまされても最後まで残り、同じ霊園にある正久組長の実弟で、名称復活以前の竹中組を率いていた竹中武組長の墓参も人知れず行っていたといわれているのだ。それだけ安東組長は義理堅いということだろう。
そうした姿が現在の二代目竹中組の求心力となっており、今回、元中野会の大幹部の加入につながったのではないだろうか。
(文=沖田臥竜/作家)