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『青天を衝け』渋沢栄一から第一国立銀行を任された男、佐々木勇之助…その有能すぎる人生

文=菊地浩之
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勤勉な仕事ぶりが渋沢栄一に認められ、第一銀行頭取を務めた佐々木勇之助。NHK大河ドラマ『青天を衝け』での算盤対決、あそこで挙手できる時点でやはり凡人ではない気がする……。(画像はWikipediaより)

佐々木勇之助、軍艦奉行などを歴任した藤沢次謙より算術を教わる

 昨年12月26日に最終回が放送されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』。このドラマでは、渋沢栄一(演:吉沢亮)が第一国立銀行で執務をとっていると、必ず出てくる人物がいた。佐々木勇之助(演:長村航希)だ。

 たとえば第32回「栄一、銀行を作る」(10月24日放送)において、外国人との算盤による計算対決を制した男といえば、「あぁ、そんな人、いたっけなぁ」と思い出す方もいらっしゃるだろう。

 栄一は第一国立銀行頭取を務めるかたわら、あちこちで企業を創っては、あとを託す人材を見つけて、その経営を任せていった(でなければ、あんなに多くの企業をつくれない)。当然というか、第一国立銀行においてもガッチリ経営を任せられる人材がいたからこそ、あちこちで企業を創ることができたわけである。そして、まさにその第一国立銀行の経営を任せていたのが、佐々木勇之助なのである。

 佐々木勇之助(1854~1943年)は江戸本所の浅野邸で生まれた。父が旗本・浅野氏祐(うじすけ)に仕える武士だったのだ。

 勇之助は幼い頃に「藤沢ジケン」から算術を習ったという。藤沢次謙(つぐよし)のことだろう。次謙は講武所頭取、軍艦奉行、陸軍奉行並を歴任した有能な旗本だった。ちなみに主君の浅野氏祐もデキる旗本で、江戸で和宮(演:深川麻衣)の縁談に関わる雑務に携わり、神奈川奉行、外国奉行、陸軍奉行並、勘定奉行を歴任している。

 江戸時代は身分の上下が厳しい階級社会で、特に武家社会ではそれが厳格だったが、ひとつの例外があった。勘定方、今でいう大蔵・財務官僚である。こればっかりは世襲でおバカでは務まらない。低い身分からの抜擢が少なくなかった。そうした観点から、勇之助は幼い頃から算術を習わせられたのだろう。

 明治維新が起こったとき、勇之助はまだ満14歳。父は浅野邸を引き払って、炭屋を始めては失敗し、砂糖屋や質屋を開業したが、これもうまくいかずで困っていた。その頃、父の友人の子息が明治新政府の為替方に務めており、その友人らの勧めで勇之助は為替方に入ることになった。新政府の金融機関のようだが、実態は三井・小野組らの商家がそれぞれ人を出して運営していたらしい。

佐々木勇之助、19歳で日本最初の銀行、第一国立銀行へ転籍…「将来見込のある有望な青年」

 三井・小野組らが第一国立銀行を設立すると、勇之助は同行に転籍した(渋沢栄一は勇之助を、三井から来た人物と認識していた)。

 第一国立銀行は日本最初の銀行なので、当然、銀行実務がよくわかっていない。そこで御雇い外国人のイギリス人、アラン・シャンドがやってきた。そう、『青天を衝け』で、算盤対決をしたあの外人サンである。そこで栄一は、人物を厳選してシャンドに銀行実務を学ばせた。

 栄一は「この人選に際し、『元三井組の事務方に居った佐々木勇之助という青年は、歳の若いに似ず却々(なかなか)頭脳も確(しっ)かりして居り、算数の事も達者で物の役に立つ人間である』という進言があったので、二三の質問に対してもキビキビとして少しも臆せず答弁したので之(こ)れは将来見込のある有望な青年だと思った。それで……抜擢されて伝習生となったのであるが、果たして私の見込んだ通り、銀行条例などに就いて最も早く理解し、洋式の簿記法を始め諸般の事務にも衆(しゅう)に優れて練達し、規則上からも実務上からも其の進歩が眼立って速(すみや)かであった。私は益々頼もしい青年と思うて特に注意する様になったのである」。

 当時、栄一は33歳、勇之助は19歳だった。

 そして、横浜の商人が銀行に10万ポンドを持ち込んだ時に、他の行員では円換算ができず、勇之助がただちに換算したことが、栄一からの信認を決定づけた。勇之助に奥で経理をやらせておくにはもったいないから、営業部にまわせと指示したという。

 地方でも銀行設立の動きが広がったが、何分、銀行業がどういったものかがわからない。そこで、国内初の銀行である第一国立銀行(というか栄一)に教えを請いにきた。だが、直接指導するのは栄一ではない。現場の行員である。主に勇之助と長谷川一彦という同僚が応対した。もっとも「他から習いに来ると云っても行内に稽古場があったのではなく、私共が仕事をしている傍に来て教わるだけでした。見学です」とのことなのだが。

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日本最古の銀行は、1873年(明治6年)に渋沢栄一が日本橋兜町に創設した第一国立銀行。その後、一般銀行に改組され第一銀行となり、現在のみずほ銀行につながっていく。写真は1930年当時の第一銀行の様子。(画像はWikipediaより)

28歳で第一国立銀行の支配人(ナンバー6)に就任、42歳で取締役(ナンバー5)、52歳で総支配人に

 銀行実務に精通した勇之助は順調に出世していく(年齢の記載は満年齢)。

 1875年、21歳で早くも帳面課長である。課長といっても、われわれがイメージする課長よりはるかにエラい。なんてったって、銀行内部に課というものが数カ所しかないのだ。今でいうなら、○○部長、✕✕本部長くらいだと思ってもらってもいいだろう。

 そして1882年、28歳で支配人。この時、第一国立銀行の役員陣は頭取、取締役4人、その次が支配人である。つまり、6番目にエラいのだ。

 1896年、第一国立銀行が株式会社第一銀行に改組された時、勇之助は42歳で取締役に就任。ナンバー5に昇格した。

 その10年後の1906年、52歳で総支配人に就いている。これはそれまでなかった役職で、「当銀行の頭取、取締役は取締役会において重要なる行務を協定し、総支配人をしてこれを施行せしむ」(『第一銀行史』引用にあたってカナ遣いを改めた)。業務執行役員のトップで、事実上の頭取といってもよい。渋沢栄一がいよいよ財界で引っ張りだこになって、その代わりに第一銀行を任せられる人材として佐々木勇之助を公式に認定したということだ。

 1916年についに栄一が頭取を退任。勇之助が62歳で頭取に就任した。

 1931年、77歳で頭取を退任。同年11月に渋沢栄一が死去している。1943年3月に第一銀行が三井銀行と合併を決定。相談に来た第一銀行役員に「やむを得ず」と答え、その年の12月に死去した。89歳だった。

佐々木勇之助の人となり…地味で堅実、第一銀行内では「いなびかり」とのあだ名で恐れられた

 勇之助は地味で堅実な性格で、その銀行経営に対する姿勢も極めて堅実だった。

 渋沢栄一は勇之助を評して「何事に対しても出遮張(でしゃば)るという事をせぬ人であるが、さりとて凡(すべ)てに盲従する人ではなかった。私の積極主義であるに対し、何かと云えば佐々木氏は守成的であり」「露骨に言えば石橋を叩いて渡るといった風が」あった。「佐々木氏の意見は非常に綿密であり切実であったので私は大小に拘(かか)わらず相談したものである」と語っている。

 こうした勇之助の評判は、銀行内部だけでなく、金融界にもあまねく知れ渡っていた。

 1901年、第四次・伊藤博文内閣が倒れると、元勲が相談して井上馨を総理大臣にしようという話になった。井上も前向きで「渋沢が大蔵大臣をやってくれるなら」と、栄一に大臣就任を打診した。そうなると第一銀行頭取を辞めねばならない。行内は大反対。しかし、井上さんのためならやらねばなるまい。困った栄一は、日本銀行総裁・山本達雄に相談すると、「第一銀行の事は少しも心配いらないよ。君のとこに佐々木勇之助という立派な後継が居るじゃないか」と回答(勇之助がまだ総支配人に任じられる前の話である)。栄一も「総裁がそう見て居られるならそうするかな」と翻意した――のだが、井上内閣の組閣は結局流れてしまったという。

 また、第一次世界大戦で日本の海運が好況を博したのだが、船が沈むリスクもあり、金融界では海運への融資には慎重だった。当然、勇之助も慎重だったのだが、支配人・杉田富(とみ)が海運業を研究して、船舶金融を積極化するように説得してしまった。

 それを聞いた日本興業銀行総裁・土方久徴(ひじかた・ひさあきら/のちの日本銀行総裁)は「(あの慎重な)佐々木さんのやっておられる銀行が船(舶金融)をやられたということは、(われわれが見落としているが、)どこかよいところがあって、間違いないという穴があるのだろう」との感想を述べたという。

 ただし、行内では厳格なことで知られ、「いなびかり(=カミナリ)という綽名(あだな)で怖がられて」いたという。

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三世代にわたって渋沢栄一の本営を堅守している佐々木勇之助の一族。栄一の「将来見込のある有望な青年だと思った」という予想は正しかったのだ。

親族らが三代にわたって第一銀行の役員を務めた、佐々木勇之助の一族

 1912年、第一銀行は初めて他行(二十銀行)を吸収合併し、その頭取・佐々木慎思郎(しんしろう)を取締役に選任する。この慎思郎という男、勇之助の実兄なのだ。企業合併にはトップの信頼関係が重要だというが、兄弟なのだから、うまくいったに違いない。

 慎思郎の長男・佐々木興一は第一銀行支配人から、系列の東京貯蓄銀行取締役に転出している。その娘は渋沢喜作(演:高良健吾)の孫と結婚している。慎思郎のもうひとりの孫・佐々木繁弥も第一銀行に勤め、渋沢栄一・千代夫妻の曾孫と結婚している。

 佐々木勇之助の長男・佐々木謙一郎は大蔵省に勤めたが、次男・佐々木修二郎が第一銀行に就職している。実は、三井銀行との合併時、第一銀行の頭取は渋沢栄一の女婿・明石照男(あかし・てるお)、副頭取は勇之助の次男・佐々木修二郎だったのだ。修二郎は合併行の専務を務めた後、渋沢倉庫会長に転じている。

 なお、修二郎の長男・佐々木春雄も第一銀行に就職し、合併後の第一勧業銀行常務を務めている。勇之助の家系は三代にわたって第一銀行(とその後継銀行)の役員を務めていたのだ。

【参考文献】
加藤俊彦『日本の銀行家―大銀行の性格とその指導者』(1979年、中公新書/同書には、渋沢栄一の回顧録『青淵回顧録』からの引用が多々ある)

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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