北朝鮮労働党委員長の金正恩氏が使用する「イリューシン62M」という航空機について、メディアや日本政府の認識が誤っている。
大きな認識の誤りは2つあり、それは航続距離が短いということと、機体が古いので安全性に問題があるという点である。
まず航続距離については、最大5000キロというまことしやかな情報によって、昨年の第1回目米朝首脳会談の場所をめぐる報道でミスリードが始まった。当時のメディアの論調は両当事国での開催はまず除外し、中立的な場所として板門店、モンゴル、それにスイスなどが候補に挙げられた。スイスはかつて金正恩氏が住んでいたこともあったからだ。
しかし、そこでまずスイス説が消えていったのが、このイリューシン62M型機の航続距離からくるものであった。当該機は北朝鮮の首都・平壌からノンストップでとてもスイスまで飛んでいけないからだというものだ。したがって場所はアジアなどの近距離に限定されると報じられた。
イリューシン62Mは約1万2000キロ飛行できる
日本のメディアや一部コメンテーターの論評は、結果的にフェイクニュースとなってしまった。航続距離が5000キロという情報の真偽を確かめようとしなかったからである。
情報源は韓国の反政権側の3つの新聞で、いずれも文在寅政権が急速に北朝鮮と融和を進めることに反発し、北朝鮮の政府専用機を古くて使い物にならないと揶揄するもので、それは2回目の会談が行われた今年になってからも続いている。隣の敵国の内情を知らないわけがなく、このフェイクニュースは確信犯といってもよいだろう。
次に、これらの情報の真偽を確かめもしないで流した日本のメディアの責任はどうか。識者も一度インターネットでイリューシン62Mを検索してみたらどうか。ウィキペディアには航続距離1万キロと書かれている。
ネット情報が正しいかどうか疑問があれば、航続距離をメーカーに確かめてもよいだろう。少々年配の方だとアエロフロートが羽田(成田)からシベリアを経由してモスクワ、さらにヨーロッパまで同型機で運行していたことを覚えているだろう。日本からモスクワまでは約7500キロ、飛行時間で10時間30分。ちょっと常識を働かせれば、5000キロ説は誤りと気がつくはずである。
残念なことに、今年2月末の第2回目の米朝首脳会談がベトナムのダナンで行われると伝わったときにも、ある朝のワイドショーでその理由のひとつとして北朝鮮の政府専用機の航続距離は5000キロで、ダナンなら平壌から約3000キロであるから可能との説明が行われた。2月4日のことである。
私は当番組のディレクターをはじめ、主なワイドショーや報道番組のディレクターに連絡を取り、場所がベトナムになった根拠に政府専用機の航続距離を持ち出すのは正しくないと説明した。幸い、それ以降は航続距離の話が報道されていないので、やれやれと胸をなでおろしている。
さて、このイリューシン62Mについて少々補足をしておきたい。
就航は1967年と古いが、前にも述べたように日本からモスクワまでノンストップで楽々と飛べていたものであるが、さらにこの改良型(北朝鮮の政府専用機と同型)では燃費の良いターボファンエンジンを1970年代に装着、1978年にはアビオニクスも改良している。
イリューシン62Mの航続距離は1万キロとされているが、それは乗客と貨物を満載した状態での性能で、政府専用機のように要人と最小限の荷物という条件なら、さらに遠くまで飛行できるものなのである。平壌からはスイスはおろか北欧、パリ、ロンドンまでも容易に届くものである。
安全性に問題のあるオンボロ機なのか
次に一般によく出されることだが、イリューシン62Mが旧ソ連の年代物で危険だから、金氏は中国のジャンボ機や列車を使うという話だ。
昨年6月のシンガポールでの首脳会談の前には、「北朝鮮は貧乏で新しい飛行機も買えない」「万景峰号で来たほうがいいんじゃないか」などという声がメディアや多くのコメンテーターから出され、ネット上でもあふれていた。
これも正しくない。北朝鮮にはコリョ航空がハイテク機を運航していて、単に新しい機材を選択するというのであれば、これに乗り換えればよい。しかし、航空通でもある金氏があえてイリューシン62Mにこだわるのは、その安全性である。
イリューシン62Mはエンジンを4基装備し、航空機関士やナビゲーター(航空士)も搭乗できる仕様になっている。航空機関士はエンジントラブルや火災など機材のトラブルに専門に対処でき、ナビゲーターは仮にGPSなどが不作動となったり、ハッキングされても太陽と星の位置から自機の位置を割り出す天測航法によって目的地まで誘導できる。
したがってコックピットには2人のパイロットのほかに航空機関士とナビゲーターと合わせて4人(加えて交信専門のラジオオペレーターも搭乗の可能性あり)が従事し、何事が起きても安全を担保しようとしている。
機材自体が古いのではないかという意見もあろうが、専用機は使用頻度が少ないこと、エンジンは常に新しいものに交換されていること、それにハンガーのなかで保存され整備をきちんとされているとすれば、安全性はまったく問題はない。
ちなみにアメリカのエアフォースワンに使用されているジャンボ機は「747-200B」を改造したもので機体は約45年前の古いものである。この事実も、テレビ局のディレクターに話すと皆一様に初めて聞いたと驚くのである。エアフォースワンにはわざわざ新幹線でいえばO系のような古いタイプを使っているが、その理由は航空機関士とナビゲーターを搭乗させることができる仕様になっているからである。
747-200とそれ以前の機材では、コックピットの天井に天測用のセクスタントと呼ばれる機器を外に出せる窓がついているからである。
私の所見ではイリューシン62Mはさすがにボーイング747-200Bと比べるとシステムや性能において劣っているものの、安全性やナビゲーションなどで実用上なんら遜色ないレベルのものと考える。
現世界の主要国の政府専用機をみると、エンジンを4基装備しているのはアメリカ、ロシア、中国、ドイツ、それに北朝鮮でその他はフランス、イタリア、カナダそれに4月からは日本も加えてパイロット2人だけで運航する双発機となっている。
危機管理をよく理解している国では、専用機はまず4発機、続いて航空機関士などを加えた編成を選択していることを忘れてはならない。
上から目線では道を誤る
昨年末、イリューシン62Mについてよく知らない評論家や政治家が話したいくつかを紹介しておきたい。最初はある未来工学の「専門家」が夜のワイドショーで語った、シンガポールへ行く前に中国・大連での首脳会談に向かったときのことだ。
「イリューシンはまともにナビゲーションできないので、ハイテク化された輸送機を先に飛ばせて、そのあとをついていった」
このコメントには開いた口がふさがらなかった。イリューシン62Mにはコンピュータを使ったナビゲーションシステムが装備されており、さらに旅客機の運航はIFR(計器飛行)が基本、前の輸送機の後ろを見てついていくなどという飛び方などありえない。
航空のことを知らないと、このような子供だましのようなコメントを平気でやり、それを多くの視聴者は信じてしまう。輸送機が先に飛んだのは、地上での専用車を先にそれで運んだにすぎないのである」
さらに驚くコメントをしたのは麻生太郎副総理だ。
「旧ソ連時代のポンコツ飛行機、シンガポールに着くまでに落ちなきゃよいのにね」
麻生氏は思ったことを正直に話すタイプなので、発言は本意であろう。とすれば首相官邸はイリューシン62Mについて極めて不正確な情報しかもっていないことになる。一体、防衛省や国土交通省は正確な情報を官邸にあげているのか、そうでないとすれば我が国の外交、防衛にも影響が出る。
相手の国の装備を正確に把握せずして、交渉も防衛もできるはずがなく、本当にこの国は大丈夫なのだろうかと心配になってくるのである。
(文=杉江弘/航空評論家、元日本航空機長)