だからこそ、今回の結果は現代の大鵬・戸田戦として、苦い教訓として未来につなげていかなければならない。協議を重ねた結果、やはり現在のビデオと勝負審判の肉眼の総合的な判断がベストであるという結論に行き着いても良い。そこに至る検討のプロセスが重要なのだ。もし今の軍配を決める仕組みをそのまま続けるのだとしたら、そこには人を納得させるだけの説得力がなければならない。
判定システムの改革に着手しない相撲協会
今回の事件に関する最大の問題点は、相撲協会にこの問題に着手する様子がまったくない点である。露呈した問題を今後に活かさないというのは、近年頻発する事件に対して相撲協会がほぼ何もしないということの繰り返しである。大相撲の体質的な問題が明らかになるなかで、彼らは一体何をしただろうか。問題が発覚するたびに力士への研修が行われる程度である。
相撲協会は、一連の不祥事を乗り越えて未来を生きる組織に変わるどころか、それを機にした政争が発生し、先の元横綱日馬富士による暴行事件でも、元貴乃花親方が相撲協会から去っただけで終わった。そして、当然のように今回も彼らは彼らの論理で勝負の判定システムを変える気がないらしい。
大相撲にはジャーナリズムがないという話を、私は繰り返し主張している。相撲協会に批判的な言動を行った相撲評論家から取材証を没収したこともあるし、とある有名なスポーツサイトに掲載される記事には事前に相撲協会の校閲が掛かるという驚くべき事実もある。大相撲の世界で生きていくには彼らの理屈で生きていくしかないので、相撲マスコミが相撲協会に批判記事を掲載することは非常に少ない。仮に掲載されるとしたら、それは相撲協会の息がかかっていない記者が、同様の媒体に寄稿したケースである。
このままでは、相撲協会の理屈に共感する相撲ファンと、協会のスタンスに納得しないまでも「大相撲が楽しいから」という理由で気持ちに蓋をしながら見続ける既存ファンしかつかない。つまり、緩やかにファンの母数を減らして衰退していく未来しか描けないわけである。
ただ、悲観的な将来しか描けないわけではない。相撲協会というのは代々外圧によって変化してきた歴史があるからだ。前述のビデオ判定の導入や、大けがの発生に伴う公傷制度の導入(現在は廃止)、数年前の不祥事に伴うファンサービスの拡充がまさにそれである。できないわけではないが、インパクトのある出来事がなければ自ら腰を上げることがないのが、相撲協会なのである。
つまり、大相撲の未来のためには、問題が発生した後で言い続けるしかない。日馬富士による暴行事件が貴ノ岩の引退によって一段落し、世間の興味が大相撲から離れて以降、相撲協会の動向を厳しく監視し、批判するメディアは皆無だ。そこに私は大きな問題があると思う。横綱の暴行事件、親方同士の政争は見栄えのするワイドショー的な事件だが、その先で何が起きているか取り上げることこそメディアの役割である。
これでいいのか、大相撲。これでいいのか、マスコミ。互いに自ら振り返る必要があることを、栃ノ心・朝乃山戦は教えてくれたのではないか。
(文=西尾克洋/相撲ライター)