長野県中野市で4人が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された31歳の青木政憲容疑者は、「(被害者の女性に)悪口を言われたと思って殺した。射殺されると思ったので警察官も殺した」という趣旨の供述をしているという。
今回の事件で犠牲になった女性は66歳と70歳であり、ひきこもり気味だった青木容疑者との接点がたとえあったとしても、きわめて希薄だった可能性が高い。また、30歳以上年下で、自分の子どもよりも若いかもしれない男性の悪口を言うとは考えにくい。したがって、悪口が聞こえてくる幻聴があり、それにもとづく被害妄想を青木容疑者が抱いていたのではないかと、精神科医としての長年の臨床経験から疑わずにはいられない。
実際、被害妄想の影響で犯行に及んだとみられる無差別大量殺人事件は、過去にも起きている。まず、2019年に発生した京都アニメーション放火殺人事件(36人死亡)で逮捕・起訴された青葉被告は、「安売り肉を買うシーン、パクられた」と主張しているが、このシーンはありふれた描写であり、被害妄想を抱いている可能性が高い。
また、2015年に淡路島で近隣住民の男女5人をサバイバルナイフで刺殺した男も、「集落の近隣住民は『サイコテロリスト』だ」「自分は日本国政府・近隣住民らによる陰謀で電磁波兵器により攻撃を受けている」という被害妄想を抱いていた。同じく2015年に埼玉県熊谷市で小学生2人を含む6人を殺害したとして強盗殺人罪などに問われたペルー国籍のナカダ被告も事件前、複数の知人に電話で「誰かに追われていて殺される」と訴えており、被害妄想を抱いていたと考えられる。
さらに、2001年に大阪教育大附属池田小学校で刃物を振り回し、児童8人を殺害した宅間元死刑囚も、精神鑑定で「被害者的に物事を考える傾向」が強いことが指摘されており、妄想性パーソナリティ障害と診断されている。1999年にJR下関駅にレンタカーで突っ込んだうえ、包丁を振り回して5人を殺害した上部(うわべ)元死刑囚も、「人類全体から嫌がらせを受けている」という被害妄想を抱いており、同じく妄想性パーソナリティ障害の診断が下されている。
歴史をさかのぼれば、横溝正史の『八つ墓村』のモデルになった「津山三十人殺し」を1938年に引き起こした都井睦雄にも同様の傾向が認められる。都井は、姉にあてた遺書に「不治と思われる結核を病み大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き遂に生きて行く希望を失ってしまいました」と書きしるしている。
生き残った村の者たちは、彼の肺病は、自分で思いこんでいたほどひどくはなく、そのために格別彼を避けたり差別したりしたことはなかったと証言している。したがって、当時の岡山地方裁判所塩田末平検事が指摘しているように、「自己の肺患並びに周囲の圧迫を実相以上に重く感じ、ほとんど妄想の程度に進んでいる」状態であり、被害妄想的な受け止め方をしていたと考えられる。
被害妄想が大量殺人の動機形成の一因になりやすい理由
このように、大量殺人犯に被害妄想、あるいは過度に被害的に受け止める傾向が認められることは少なくない。これは、次の3つの理由による。
1) 他責的傾向が強くなる
2) 不合理な恐怖を抱きやすい
3) やられたという思いから自己正当化しやすい
まず、被害妄想によって自分が迫害されていると思い込むと、「うまくいかないのは、他人や社会のせい」と考える他責的傾向がどうしても強くなる。この他責的傾向は、アメリカの犯罪学者、J・レヴィンとJ・A・フォックスが「大量殺人の心理・社会的分析」で大量殺人を引き起こす要因として挙げた6つのうちの1つである。
また、被害妄想を抱いていると、他人が悪意を持って自分に害を与えるように感じやすく、「危険が迫っているのではないか」「やられるのではないか」という不合理な恐怖を抱きやすい。そのため、「やられる前にやる」という思考回路から先制攻撃を加えようとするわけで、「射殺されると思ったので警察官も殺した」という青木容疑者の供述の根底には、不合理な恐怖が潜んでいるように見える。
さらに、自分が理不尽な被害を被ったと妄想的に思い込んでいると、「やられたのだから、やり返してもいい」という論理で仕返しとしての攻撃を正当化しがちである。青木被告は「(被害者の女性に)悪口を言われた」という被害妄想を抱いていたからこそ、その女性にやり返してもいいと考え、殺人まで犯したのではないだろうか。
このように被害妄想によって大量殺人が引き起こされやすいことは否定しがたい。しかし、被害妄想はあくまでも動機形成の一因にすぎず、他の要因もからみ合って凶行に走ると考えられる。
とくに重要なのが、J・レヴィンとJ・A・フォックスが大量殺人を引き起こす要因として挙げた他責的傾向以外の5つである。
①長期間にわたる欲求不満
②破滅的な喪失
③コピーキャット(過去の事件の模倣)
④社会的、心理的な孤立
⑤大量破壊のための武器の入手
今回の事件で私が注目するのは、最近青木容疑者が「自分はもう駄目だ」「自分の人生はもう終わりだ」と受け止めるような深刻な喪失体験、つまり②破滅的な喪失がなかったかということだ。昨年11月29日、地元の金融機関から自宅に抵当権設定され、青木容疑者に300万円の融資が実行されたということだが、もしかしたらそれによって始めた新しい事業がうまくいかなかったのかもしれない。
もっとも、これは推測の域を出ない。今後、捜査が進展し、青木容疑者の供述や精神鑑定によって動機が解明されることを切に望む。
参考文献
片田珠美『無差別殺人の精神分析』新潮選書、2009年
片田珠美『拡大自殺-大量殺人・自爆テロ・無理心中』 角川選書、2017年