社用車で演歌を唸り、ホテルのスイートを定宿にする巨大新聞社長
元々「美松」は芳町の三流処の料亭だった。だから、証券会社の幹部も若手記者を連れて接待したのだが、芸者を呼ばなければ、手頃な値段で宴会ができた。松野も時々取材相手との宴席に利用するようになり、今も秘密の会合を持つ「隠れ家」として使っている。
水天宮通りを右に折れてしばらく歩くと、左手前方に建物が途切れる。そこが「美松」で、道路から5mほど奥まったところにある2階建ての木造家屋である。道路から覗いただけでは、砂利を敷いた駐車場の奥にある普通の民家にしかみえない。しかし、駐車場ではなく、ちょっと広い私道なのだ。かつては客や芸者を送迎する車が乗り入れ、道路まで出ずに料亭に出入りできる利点があった。
軒下に玄関灯があり、私道を半分ほど入れば、硝子戸の脇に打ちつけられた、大きな木製の表札が目に入る。そこには割烹「美松」と書かれており、初めて料理屋だとわかる。
勝手知ったる松野が玄関の硝子戸を開けるまで、5分とかからなかった。
「お待ちしていました」
●会合の相手
硝子戸を開けると、老女将が出てきた。松野は沓(くつ)脱ぎ石で靴を脱ぎ、上がり框(かまち)に置かれたスリッパに履き替えた。
「まだ、来ていないね」
「ええ来ていません」
部屋は2階に3室、1階に2室しかなく、元々「待合(まちあい)」のような風情があった。今は仕出し料理なので、割烹というより文字通り「待合」なのだ。しかし、「待合」という言葉はもはや死語に近く、割烹と称している。この日は1階奥の一室で、老女将は廊下を案内、2つ目の格子戸を開けた。部屋は10畳間で、右側に床の間があった。その前に置かれた長方形のちゃぶ台には箸とグラスが並べられ、その前後に2つずつ座椅子が置かれていた。
「どちら側に座られます?」
「いつも通り、俺が床の間を背にするか。奴より、俺のほうが先輩だからな」
「お茶をお持ちしましょう」
床の間を背にした奥の座椅子に腰を落ち着けた松野を残し、老女将は部屋を出た。
「まだ6時半前か」
松野は腕時計をみた。しばらくすると、お茶を持った老女将が戻ってきた。
「料理のほうは、午後7時半過ぎからお出しすればよろしいんですね」
「ふむ。奴と2人だけで話があってな。それが済む頃に、残りの2人が来る手はずだ」
「よかったわ。まだ仕出し料理が届いていないんですよ。お酒のほうはどうされます?」
「しばらくはお茶でいい。始める時は呼ぶよ」
「もう、仕出し料理も届くでしょうから、そしたら、付き出しくらいはお出ししますか」
「…そうしてもらうかな。ところで、話は違うが、『美松』は今でも芸者を呼べるのか」
「呼べますよ。昔は上げていたんですからね」
「そうか。頼むかもしれん」
「今日じゃないんですよね」
「もちろんさ」
この時、玄関の硝子戸が開く音が響いた。
「お見えになったようです」
老女将が出迎えたのは日亜新聞社社長の村尾倫郎(みちお)、松野が「奴」と呼んでいた男である。
(文=大塚将司/作家・経済評論家)
※本文はフィクションです。実在する人物名、社名とは一切関係ありません。
※次回は、来週10月27日(土)掲載予定です。
【過去の連載】
第1回『新聞を読まない、パーティー三昧…巨大新聞社長の優雅な日々』
●大塚将司(おおつか・しょうじ)
作家・経済評論家。著書に『流転の果てーニッポン金融盛衰記 85→98』(きんざい)など