ーー陰と陽のバランスを取る意味でも、自ら能動的に動くことが肝要ということでしょうか?
石黒 そのとおりです。受動的な意識でいると、他に依存してしまう。自分で自分の立ち方がわからなくなり、周囲に振り回されてバランスを崩し、さらにはそれを周囲のせいにしてしまうから。
僕がなぜ自分から動くことを、能動的であろうとすることを強く勧めるかというと、動かないことのメリットが僕にはわからないから。動かないでいて、何かいいことがありますか? 動いて失敗する可能性があるから? すればいい。それは成功した喜びへの“下ごしらえ”だと思えば、そもそも失敗ってあるの、とすら極論できます。
もちろん動くばかりではなく、時には止まってもいいんです。ただし、それは能動的に判断した結果の「止まる」でなければいけない。つまりは、周囲に依存しない、自分で自分の責任を取っていく、という意識です。そういう意識に欠けているから、すぐ「社会が悪い」「会社が悪い」「周囲の人がダメ」みたいな発想になってしまう。これって責任を他に求めている他責の姿勢……つまりは周囲に依存している以外の何ものでもないでしょう。
「社会が悪い」「会社が悪い」とグチグチ言う前に「あなた自身の言動はよかったのか悪かったのか──能動的に考えて、自分に責任を持った振る舞いができたのですか?」と尋ねたくなります。文句を言うにしても、まずは自分ができる範囲までやりきってからにしなさいよ、と思いますね。
ーーとはいえ「動くことが大事なのはわかるけど、どう動いていいのかわからない」という葛藤もあると思います。
石黒 それはよくわかりますよ。だからどうしても、わかりやすい「解」を求めてしまう。それで、毒にもクスリにもならないようなライフハックに血道を上げたり、手帳の活用術みたいな方法論に縛られてしまったりするわけです。でも、そういうのって所詮は上澄みをすくうみたいにムシのいい発想。本質ではない。誰かに背中を押してもらうつもりで仕事術の本などにすがっても、結局はクビ根っこのあたりをつかまれて、こづかれているだけ。
重要なのは公式を自分でつくっていく意識、そしていらない思考を捨てる意識ではないでしょうか。僕の考え方は超シンプルで「迷ったら動く」。そうしてトライ・アンド・エラーを重ねることで、自分なりの公式を自分のなかにつくってしまうんです。そうすれば、次第にアタマや身体が勝手に動くようになります。思考が“反射”になればしめたもの。
だいたい、個別具体的な解を他に求めてしまう時点で、自分で工夫しようと思わなくなる。すでに存在する他人の考えた公式に乗っかろうとしている段階で、その人の思考、生活スタイルは変化を止めてしまいます。そうして、堂々巡りのループにハマってしまうんです。既存事例とか、他の人の考え方に倣うことを一概に否定するわけではありませんが、その上で「自分はどう考えるのか、どう動くのか」を意識することは絶対に必要だと思いますね。
たとえばパソコンの前で、パワーポイントの画面をにらみながらウンウン唸っていても何も出てこないものです。動けない人は往々にして、キレイに仕事をしようとしすぎている。やり方にこだわったり、見栄えや格好ばかりに意識が向いてしまっている。そうではなくて、紙とペンで、とにかく思い付いたことを箇条書きにして、ボンヤリとした概念を図にしてみる。泥臭くても汚くても稚拙でもいいから、愚直に自分の手を動かしてアウトプットしてみる……そういう試みが軽視されている気がしてなりません。
●経験を蓄積する
ーー「わからなくてもいいから、とにかく動く」という処世術、ということでしょうか?
石黒 ええ。僕は、仕事って「経験則」が非常に大事だと考えています。失敗したり、困ったり、窮地をくぐり抜けてきた経験の蓄積。そこから生み出される、自分なりの公式……それが経験則。いわゆる“優秀な人”って、とにかく自分で能動的に動いて、自分なりの経験則をたくさん持っている。30年の仕事で出会った人たちから、そういう肌身感覚はあります。