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プロ野球本拠地球場“老後”の悲喜こもごも〜栄光の歴史を消された“遺跡跡地”平和台の謎

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平和台野球場記念碑(「Wikipedia」より/Muyo)
“神の子”マー君こと楽天ゴールデンイーグルスの田中将大投手が、9月13日、シーズン21連勝を達成し、“神様”稲尾様こと西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の稲尾和久投手が1957年につくったプロ野球同一シーズン連勝記録を塗り替えた。

 その稲尾を生んだ西鉄ライオンズのかつての本拠地・平和台野球場はいま、“神様”の聖地としてはあまりにも寂しい境遇に置かれている。

●“神様、仏様、稲尾様”は日本シリーズ逆転勝利で誕生

 本題に入る前に、まずは稲尾が“神様”になったいきさつをおさらいしておこう。

 入団2年目の1957年、稲尾は7月18日から10月1日までのわずか2カ月半で20連勝しており、シーズン全体では35勝というとんでもない記録を打ち立てている。概ね中5日程度のローテーションで投げさせる現在では、先発の当番回数は1シーズンに28試合が限界だが、稲尾はこの年、132試合のうち68試合に登板し、そのうち先発が33試合。残り35試合は途中登板だというのだから、2日に一度は投げていたことになる。

 しかもこの時代の途中登板は、“中継ぎ”という概念がないので、今のような打者数人で交代などという生やさしいものではない。マウンドに上がったら最後、打たれて替えられるまで投げる。今とは野球の緻密さも違うし、68試合の登板で35勝だから、勝率だけみれば平凡とはいえ、この時代の人の肉体の強靱さは想像を絶する。

 こんな過酷な投げ方をしながら、稲尾の現役生活は14年にも及んでいる。登板試合数は通算756試合(1シーズン平均54試合)、うち先発が304試合で完投は179試合。奪った三振は2574、生涯通算防御率は1.98という、球史に残るとんでもない選手だった。

 西鉄は56年から58年まで3年連続で日本一になっており、この時期が黄金期。57年シーズンはその黄金期の真ん中の年で、日本シリーズの相手は読売巨人軍。3連敗後の4連勝で日本シリーズを制したのだが、7戦中6戦で稲尾が登板し、3戦以降は5連投。優勝が決まった翌日の朝刊で、地元・西日本新聞社発行の西日本スポーツが付けた見出しが『神様、仏様、稲尾様』。これが“神様、仏様、稲尾様”の由来だそうだ。黄金期の平和台野球場の熱狂ぶりは、日本経済新聞のスポーツ欄で、当時西鉄のスター選手だった豊田泰光氏が不定期に執筆しているコラムでも頻繁に描かれている。

●遺跡発掘調査のために閉鎖、解体

 だが、69年に発覚した八百長事件、通称「黒い霧事件」で多くの選手が西鉄を去り、西鉄の黄金時代は終焉。観客動員数は大幅に減り、太平洋クラブ、クラウンライターなどへの身売りを経て、西武がライオンズ球団を買収。78年の埼玉へのフランチャイズ移転によって、平和台野球場はプロ野球団の本拠地としての役割をいったん終える。

 再びプロ野球団の本拠地となるのは10年後の88年。南海ホークスをダイエーが買収、大阪スタジアムから本拠地を平和台に移したためだったが、あくまで新球場(現・ヤフオクドーム)完成までの一時的な使用という扱い。

 その前年の87年暮に、外野スタンドの改修工事中、海外からの使節を受け入れる古代の迎賓館・鴻臚館の遺跡が発見され、遺跡の発掘作業を進めて歴史公園にする、ということが決まっている。

 福岡ダイエーホークスは93年まで平和台野球場を使用、94年シーズンから完成した新球場をホーム球場にしたため、そこから本格的に歴史公園整備事業がスタートし、97年に地元ファンから惜しまれながら閉鎖。99年にスタンドを解体、本格的な発掘調査が始まった、というのがネットで調べると出てくる、平和台野球場のおおまかな歴史である。

 だが、実際に今、現地に行ってみると、そこには一世を風靡したプロ野球団の本拠地だった球場が存在し、球史に残る名選手が生まれ、地元市民を熱狂させたことを後世に伝える施設らしきものは何もない。

●消えた球場“老後”の明暗

 老朽化や球団の身売りがきっかけで使命を終えた球場はいくつもある。阪急ブレーブスの本拠地だった西宮球場、近鉄バファローズの本拠地だった藤井寺球場、近鉄に準本拠地として使われた日本生命球場(通称・日生球場)、南海ホークスの本拠地だった大阪スタヂアムなどは、今では現存しないが、その多くは幸福な“老後”を送っている。

 西宮球場跡には阪急電鉄が阪急西宮ガーデンズを建設、施設内の阪急西宮ギャラリーには阪急ブレーブスの名シーンやスタンドの記念品、山田久志、福本豊、加藤英司といった往年の名選手の個人所有の道具やトロフィーが展示されており、かつてそこに球場があり、数々の名プレーが生まれたことを後世に伝える施設が設けられている。

 大阪スタヂアム跡地にも南海電鉄がなんばパークスを建設、西宮球場同様、球場の歴史を伝える施設が設けられている。日生球場跡地にも今年2月、東急不動産と日本生命が共同事業で商業施設を開発することを発表。「球場の記憶を継承し、地域に愛され、ともに発展していく」商業施設にするという。ナゴヤ球場はナゴヤドーム完成後、中日ドラゴンズが2軍の本拠地として使っていて健在だし、後楽園スタジアムの跡地には東京ドームホテルなどが建っているが、すぐ隣に建てられた東京ドーム内のあちこちに往年の選手の記録が掲示されているし、野球殿堂博物館もある。

 だが、35年前、横浜スタジアムに大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)のフランチャイズが移った川崎球場は、91年まで本拠地として使用したロッテが千葉マリンスタジアムに移転。その後スタンド部分が大幅に縮小され、今は軟式野球場やアメリカンフットボール場として一般市民に貸し出されている。球場自体は存続しているが、プロ野球団の本拠地だった時代の歴史を示す施設は設置されておらず、少々寂しいことになっている。