NEW
武田鏡村「本当はそうだったのか 歴史の真実」

もう強すぎる!織田信長の神業的策略!武田軍を完全に撹乱&ハメて崩壊へ

【この記事のキーワード】

, ,

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

織田信長(「Wikipedia」より/Gryffindor)
 織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が戦った1575年の「長篠の戦い」は、信長の巧みな鉄砲活用だけが注目されているが、はたしてそうだったのだろうか。

 諸説あるが、兵力は連合軍の3万に対して、武田軍は半分の1万5000だったといわれている。明らかに劣勢な勝頼は、なぜ「勝てる」と考えて決戦に挑んだのだろうか。そこには、信長の卓越した「勝利の兵法」があった。

 まず、鉄砲だが、通説では信長が準備したのは3000挺といわれている。しかし、実際は1000挺ほどである。それでも強力な武力には違いないが、信長は弾と火薬を込める時間を有効活用するために、3班に分けて撃たせている。

 三段撃ちは、この時が初めてではなく、以前から信長が活用していた戦法だ。ただ、信長は鉄砲だけを頼りにしていたわけではない。合戦時に雨が降っていたら、当時の火縄銃は使えなくなるからである。

 武田軍の2倍の兵力を用意したのも、鉄砲が使えない事態になることを考え、白兵戦による攻防に備えたからである。

 また、前線に馬防柵(ばぼうさく)といわれる柵をめぐらせたのは、屈強な武田軍の騎馬隊の進撃を防ぐためだ。さらに、馬防柵の内側に鉄砲隊を配置すれば、その威力は増す。そのため、信長は「馬防柵から出て戦うな」と指示していたほどである。

 では、この合戦を勝頼側から見てみよう。

 江戸時代に書かれた『甲陽軍鑑』には、武田軍の重臣たちは「撤兵すべし」と進言したが、勝頼は「臆病者」と罵ったため、重臣たちは死を覚悟して決戦に臨み、水杯(みずさかずき:今生の別れの儀式)を交わした、という話がある。しかし、これは武田軍の敗北という結果からつくり上げられた物語である。

 勝頼はもちろん、重臣たちも、「この合戦は勝てる」と判断していたのである。もし、戦う前から負けると考えていたら、部将や兵卒が戦線から離脱し、士気は著しく低下していたはずだ。

 しかし、武田軍にはそんな様子はまったく見られず、堂々と連合軍に相対している。そこには、「信長と家康は、武田軍を恐れて臆している」という判断があった。

 というのは、勝頼の父である武田信玄は、かつて三方ヶ原の戦いで、信長と家康の連合軍を一蹴していたからである。そのため、「恐れるに足りず」というのが、勝頼をはじめとした武田軍の共通認識であった。

 武田軍が「勝てる」と思ったのには、もうひとつ理由があった。それは、連合軍の兵力を自軍よりはるかに少ないと見ていたからである。実際は、自軍の2倍であったにもかかわらず、「1万以下だろう」と判断したのだ。