【ASKA逮捕報道】で蔑ろにされた無罪推定の原則 メディアは自ら自分たちの首を絞めた
まったく懲りていない。それに、これでは自分の首を絞めるようなものではないか――。ミュージシャンのASKAさんの逮捕を取り上げる各種報道を見て、つくづくそう思った。それは、ASKAさんについてではない。これを報じるマスメディア、とりわけテレビ局に対して感じたことである。
生かされなかった“苦い失敗”
まず驚くのは、この件について取り上げる放送時間の長さ。確かに彼の音楽デュオは、かつて一世を風靡し、覚せい剤の使用で有罪判決を受けた後も、気になる存在ではあろう。加えて、彼自身が「盗聴、盗撮されている」として警察を呼び、それがきっかけで逮捕に至ったという、“飛んで火に入る”的な経緯も人の目を引く。
著名人の薬物問題を大きく取り上げる報道は、人々の関心に応えるだけでなく、薬物に関する啓発にもなる。個人の意志だけではなかなか断ち切れない薬物依存症の怖さや、薬物を離脱するために何が必要かといった知識が広まり、薬物対策のあり方について議論することは、大いに公共性がある。テレビ局は「視聴率がとれるから」というのが主な動機だろうが、放送時間が長いことが必ずしも悪いとは思わない。
しかし、今回の件は刑事事件だ。警察が捜査に入り、ASKAさんは逮捕された。そして、彼は「絶対にやっていない」と否認している。番組では、彼が否認していることに触れてはいるものの、事件の詳細を伝えたり、出演者がコメントしたり議論する際には、「覚せい剤を使用した」とほとんど断定している。
確かに、刑事事件の被疑者はしばしばウソをつく。薬物の影響で妄想があるかもしれない。しかし、無実の訴えが本当のことも、ないわけではない。
だからこそ、情報を伝える者も「推定無罪の原則」、すなわち「何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」という基本原則を心に留めておかなければならないはずだ。これまでも、捜査段階で被疑者を犯人と決めつける報道を行った事件が、あとから冤罪とわかったことは何度もあった。たとえば、オウム真理教による松本サリン事件では、テレビ局を含む報道各社がサリン中毒の被害者で第1通報者の河野義行さんを犯人扱いし、後に謝罪している。
こういう苦い失敗から、各局はいったい何を学んだのだろうか。
自ら取材機会を狭めた“タクシー映像”放映
尿の鑑定を基に起訴された覚せい剤の使用事犯でも、無罪判決が出た事件はある。たとえば、今年3月、東京地裁八王子支部は、覚せい剤取締法違反(使用)の罪に問われた東京都町田市の男性(47)を、無罪(求刑懲役2年)とした。判決は「男性の尿が何者かにすり替えられるなどして、別人の尿が鑑定された疑いが否定できない」と指摘。警察の捜査を「極めてずさんで、信用できない」と厳しく批判している。
この件は、強制採尿の際につくられた捜索差し押さえ調書は「虚偽の内容で、つじつま合わせでつくられた可能性がある」と判決で批判されるような代物であり、採取された尿を保管する容器の封には本来あるべき男性の署名がなく、そのうえ捜査が一時放置されたなど、さまざまな問題点があった。
あるいは、捜査の違法性が認定された事件もある。今年5月には静岡地裁浜松支部が、警察が採尿するまでの手続きなどに「重大な違法がある」などとして、覚せい剤取締法違反(使用)の罪に問われた浜松市内の男性(46)に、無罪(求刑懲役2年6月)を言い渡した。
この男性は、警察に保護され、採尿の結果陽性反応が出たが、弁護人は「保護は実質逮捕で違法。尿の鑑定書は違法に収集された証拠で排除されるべき」と主張していた。裁判所の判決は、当時の男性が「精神錯乱状態にあったと認定できず、保護手続きの要件を満たさない」と指摘。保護されなければ採尿手続きは行われなかったわけで、その両者には密接な関連性があるとして、「保護が違法であり、採尿も違法を帯び、証拠能力は否定される」と判断した。