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青木康洋「だれかに話したくなる、歴史の裏側」

西郷隆盛、「本当の顔」のミステリー…写真ゼロ、肖像画も別人

文=青木康洋/歴史ライター
西郷隆盛、「本当の顔」のミステリー…写真ゼロ、肖像画も別人の画像1東京・上野の西郷隆盛像

 鈴木亮平主演のNHK大河ドラマ『西郷どん』が、静かなスタートを切った。第1回の「薩摩のやっせんぼ」の平均視聴率は15.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)で、これは昭和64年の『春日局』に次ぐワースト2位である。また、第2回も15.4%と横ばいで、第3回で上下するのかが注目される。

 ところで、第1回の冒頭には印象的なシーンがあった。西郷隆盛が西南戦争で自決してから20年を経た、東京・上野の銅像の除幕式の場面である。臨席していた西郷の未亡人・糸が、幕が外された銅像の顔を見るなり次のようにつぶやくのだ。

「ちご、ちご! うちの旦那さんは、こげな人じゃなか」

 この逸話は事実のようで、さまざまな文献にも記録されている。このとき隣に座っていた西郷の実弟・従道があわてて糸をたしなめたという証言もある。

 幕末から明治維新にかけて活躍した英傑たちの多くは、己の肖像写真を残した。坂本龍馬、高杉晋作、大久保利通、岩倉具視、土方歳三といった偉人の写真を、誰しも一度は目にしたことがあるだろう。

 だが、西郷の場合、間違いなく本人のものと証明できる写真は1枚もない。西郷の実子で後に京都市長を務めた菊次郎も、「父は生前に写真というものを、ただの1枚も撮ったことがありません」と述べている。

 こう書くと、多くの人が疑問を抱くのではないだろうか。西郷の顔は、確か歴史の教科書に載っていたような……そう、多くの人が目にした有名な西郷の肖像画は、確かにある。だが、あれは当時来日していたイタリア人絵師・キヨッソーネが、菊次郎に依頼されて描いた絵画だ。きわめて写実的なタッチで描かれているため、繰り返し複製されるうちに肖像写真のように扱われてしまったのである。

 ちなみに、キヨッソーネは西郷の肖像を描く際に、顔の上半分は西郷の弟・従道をモデルに、下半分は西郷の従兄弟・大山巌を参考にして描いたという。誰もが知るあの西郷の顔は、いわばモンタージュで作成された想像上の顔なのだ。

明治天皇の命令も拒否した、写真嫌いの西郷どん

 ところで、なぜ西郷は自分の顔写真を撮らせなかったのだろう。幕末期には命を狙われることも多かった西郷である。「暗殺を恐れたため」という説もあるが、これは考えにくい。西郷は当時の日本人としては並外れた巨漢だった。身長179cm、体重108kgもあったというから、顔かたち以前にその体格から一目で本人と知れたはずである。

 西郷は、写真というものに生理的な嫌悪感を抱いていたようである。西郷のことが大のお気に入りだった明治天皇から写真を撮るように命じられても、拒否したという逸話があるほどだ。

 また、西郷の盟友でのちに西南戦争で敵対した大久保利通は、暗殺されたときに西郷からもらった手紙を身に携えていた。この手紙は洋行中の大久保がサンフランシスコで撮影した写真を西郷に送ったことへの返礼だったが、そのなかには次のような一節があるのだ。

「尚々貴兄の写真参り候処如何にも醜体を極候間もふは写真取は御取止下さるべく候誠に御気の毒千萬に御座候」

 西郷は、大久保の写真を見て「醜態を極まる。もう写真を撮るのなど、おやめなさい」とまで言っているのだ。もちろん、冗談混じりではあるけれど。

 いずれにしても、西郷は自分の写真を残さなかった。そのため、死後に遺族や西郷の徳を慕う者たちがさまざまな肖像画をつくらせた。それが、西郷の本当の顔をわからなくさせてしまっている一因でもある。

 もうひとつ、最後に余談を記しておこう。西郷を世に出した大恩人である薩摩藩第11代藩主・島津斉彬こそ、日本人で初めて写真を撮ったとされる人物である。その斉彬の薫陶を受けた西郷が写真嫌いだったというのは、皮肉なめぐり合わせといえようか。
(文=青木康洋/歴史ライター)

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