(日本経済新聞社)
住銀のドンとして君臨した磯田一郎・住友銀行会長は、2枚の裏カードを持っていた。1枚はイトマン(現・住金物産)の河村良彦社長(当時)である。山口商業高校を卒業して住友銀行に入行。人の3倍働くモーレツな仕事ぶりで業績を上げ、常務に昇進。経営が悪化したイトマン(当時は伊藤萬)の再建を担う社長として送り込まれた。
もう1枚の裏カードが、磯田会長と共に引責辞任した西貞三郎副頭取だった。磯田会長は河村氏を辞めさせ、代わりにイトマンの社長に送り込もうとしていたのが西副頭取だった。
西氏は46年、和歌山商業を卒業して入行。働きながら関西大学経営学部(夜間)に7年間通い、53年に卒業した苦学生である。旧帝大の東大、京大卒が幅を利かすエリート集団の中にあって、西氏が副頭取へと出世の階段を上り詰めていく間には、人に言えない数々の苦労があったことだろう。
「住友に西あり」と知れ渡ったのは、大正製薬に喰い込みメインバンクになった時、新宿支店長時代の72年のことだ。大正製薬のオーナー、上原正吉氏の妻、小枝さんは新宿支店の貸金庫を利用していた。その応対に当たったのが西氏だった。小枝夫人を通して、三菱銀行(当時)だけの付き合いだった大正製薬を住友の顧客にしていった。
ちょうど、大正製薬が家庭薬から医家向けの分野に進出しようとしていた時期に当たる。まず、住友化学工業が開発した特許製品を大正製薬だけに公開し、医家向けの品揃えの強化に協力した。海外戦略では住友商事に支援を頼み、内部の管理体制作りは住友銀行が“助っ人”する。住友グループの総力を結集した地道な努力が実って、大正製薬のメインバンクは三菱銀行から住友銀行にひっくり返った。
三菱銀行の中村俊男頭取(同)は「まるで夜襲ではないか」と激怒したと伝えられている。三菱銀行の「住友嫌い」は昔からだが、大正製薬事件でさらに強まったといわれている。
住友銀行は大正製薬を取り込むのに、“政略結婚”までやった。上田正吉氏の後を継いだ次男、昭二氏の長女、正子さんと、住友銀行の“天皇”と呼ばれた堀田庄三・元頭取の次男、昭氏を結びつけた。上原家の婿養子となった上原昭氏は、持ち株会社・大正製薬ホールディングスの会長兼社長。82年から30年間、トップの座にある。この養子縁組に奔走したのが西氏だった。