「二頭体制」から決別できるのか。経営再建中のシャープで、片山幹雄会長(55)が退任、奥田隆司社長(59)へ権限を集中する案が浮上している。社長経験者の町田勝彦相談役(69)と辻晴雄特別顧問(80)も退任して、相談役、特別顧問のポストは廃止するという。ただ、ご本人の片山会長は「会社にとって良いことをする」としか語らず、続投に含みを持たせている。
2013年5月14日に13年3月期決算と中期経営計画(3カ年)を発表する予定で、ここで人事も決着する。経営計画の策定は、みずほコーポレート銀行と三菱東京UFJ銀行のメインバンク2行が主導したといわれている。奥田社長以外の複数の社長経験者が経営に関与していることが、経営判断の遅れにつながっていることを、銀行団が懸念した。片山会長、町田相談役、辻特別顧問の3人の社長経験者の退任に踏み切るのは、取引銀行の意向が強く働いた結果だ。
トップはいったい誰なのか? この1年間以上、シャープの経営はダッチロールを繰り返してきた。片山会長=奥田社長の二頭体制どころか、町田相談役も加わりトロイカ体制、いや3人による権力闘争と揶揄されてきた。最近では、最長老の辻特別顧問の再登板さえ公然と噂されるようになった。
日産自動車を立て直したカルロス・ゴーン社長のように権限を集中させることが再建の早道だが、シャープの経営陣は派閥抗争に明け暮れたのである。これで再建できたら不思議というほかはない。
12年9月15日、シャープは創業100周年を迎えた。この100年間は親戚関係でつながった同族色が強い企業形態だったことを物語っている。ここに、今日の凋落を招く病巣があった。
シャープの創業者はシャープペンシルを発明した早川徳次氏。関東大震災で2人の子供を失った早川氏は天涯孤独の少年を手元に置いて、わが子同然のように育てた。少年の名は佐伯旭(2010年、92歳で死去)。高度成長期に、育ての親の早川氏からシャープの経営を任され2代目社長となり、佐伯氏は“中興の祖”と呼ばれた。
これ以降、佐伯氏の縁者がトップに就く。3代目社長の辻晴雄氏(現・特別顧問)は佐伯氏の娘婿の兄。4代目社長の町田勝彦氏(現・相談役)は娘婿だ。5代目社長の片山幹雄氏(現・会長)は父が佐伯氏と親交があった。2代目から5代目までの社長は佐伯氏のネットワークに連なっていた。
6代目社長の奥田隆司氏は就任当初、OBから「奥田って誰?」と言われるほど社内外の知名度は低かったが、キングメーカーである最長老の辻特別顧問が社長に推したといわれていた。
シャープは擬似同族経営なのだ。創業者の遺訓を守り、社長が交代すれば前任者は潔く経営から離れるのが不文律だった。新しい社長に、じっくり腰を据えて経営にあたってもらうためだ。社長経験者は新社長の経営方針を注視したが、決して表に出ることはなかった。
この不文律を破ったのが町田氏だった。07年に町田氏は社長を退任するにあたり、シャープの歴史で初めて代表権のある会長となった。「会長・社長の二人体制」である。権力を手放したくない一心で院政を敷いたのだ。
49歳の若さで社長に大抜擢された片山氏は、町田会長の存在を気にして、言いたいことも言えない。経営判断はどうしても遅れがちになる。二頭体制がシャープ凋落を早めることとなった。
98年、社長に就任した町田氏は「ブラウン管テレビをすべて液晶テレビに置き換える」と宣言。液晶テレビ「アクオス」のテレビCMに女優の吉永小百合さんを起用して大ヒットさせた。「液晶のシャープ」の成功体験があまりにも強烈だった。
09年10月、世界最大の液晶パネル工場、堺工場(大阪府堺市)を建設した。関連会社を含めた投資額は1兆円に上った。
当時、片山社長は「単品売り切りビジネスでは限界がある」と語っていた。町田氏が推し進めてきた液晶テレビを売りまくる手法では、価格が下落したらすぐに赤字に転落してしまう。液晶テレビの売り切るビジネスモデルから転換すべきだと考えていた。
片山氏は、結局、町田氏に押し切られ、戦艦大和さながらの巨大な堺工場を建設して、液晶売り切りビジネスへと突き進んでいった。これがシャープの命取りとなった。
12年3月期に最終赤字3760億円へ転落した経営責任を取り、片山氏は同年4月に社長を退任。代表権を持たない会長になり、会長だった町田氏は相談役に退いた。
奥田新体制が発足したが「二頭体制」は変わらなかった。町田=片山体制から片山=奥田体制に変わっただけだった。だが、実態は町田=片山=奥田のトロイカ体制だ。代表権と業務執行権を持たないにもかかわらず、町田氏と片山氏はスポンサー探しに奔走した。
町田相談役が持ってきたのが台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業との資本提携だった。しかし、鴻海との出資交渉は頓挫してしまい、669億円が振り込まれることはなかった。町田相談役は影響力を失っていく。