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高橋篤史「経済禁忌録」

廣済堂、MBOに暗雲…“ドル箱”火葬場ビジネスに影響で東京の火葬事情に一大事?

文=高橋篤史/ジャーナリスト
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 廣済堂の前の3年間、ライオンズ球団のスポンサーを務めていたのは乱脈経営が後に発覚する平和相互銀行の系列ゴルフ場会社「太平洋クラブ」(12年に倒産)だった。櫻井氏はその後の住友銀行による平和相銀合併にも一役買っていたとされる。

 フィクサー・櫻井氏は中曽根康弘元首相の支援者が集まっていた「山王経済研究会」に参加していたことが知られ、リクルート疑獄では未公開株の譲渡先として名前が上がった。82年に大火災を起こしたホテルニュージャパンの地下にあったクラブ「ニューラテンクォーター」の経営に関わってもいたが、そこはまさに政財界からヤクザまでを網羅するアングラ世界の交差点だった。

 山口組の有力直参だった後藤組の後藤忠政元組長は自著『憚りながら』(宝島社)の中で櫻井氏との交友を語っている。警察当局の資料によると、83年5月から翌年2月にかけ、静岡県富士宮市でゴルフ場の建設を進めていた廣済堂は、後藤組側から後藤元組長の実兄が持つ隣接地の買い取りを求められ、それに従ったとされる。工事を請け負っていた準大手ゼネコンは後藤組の息が掛かった建設業者を使うことを余儀なくされた。櫻井氏と後藤元組長の交友はそれ以後のことらしい。

 廣済堂による東京博善の子会社化は櫻井氏の剛腕があったからこそといえる。歴史的経緯を踏まえなければ、その成り立ちを理解することが難しい会社だからだ。廣済堂が東京博善の経営支援に乗り出したのは85年。子会社化したのは94年のことである。

東京博善と東京の火葬場事情

 東京博善の歴史は明治時代にまで遡る。もともと徳川幕府の下、江戸の町では火葬が各地の仏教寺院内などで割と広く行われていたが、神道を国是に廃仏毀釈を進める明治政府はいったん禁止令を出す。が、市街化による埋葬地不足で再び解禁。この時、商機を見出したのが後に政界にも進出する実業家の木村荘平だった。当時、牛鍋店経営で成功していた木村は1893年、日暮里の火葬場を買い受けて東京博善の前身を設立。以後、各地の仏教寺院と広く手を結んで公益性を前面に打ち出して、各地の火葬場を傘下に入れていくこととなる。

 現在、東京博善は町屋(荒川区)、落合(新宿区)、代々幡(渋谷区)、四ツ木(葛飾区)、桐ヶ谷(品川区)、堀ノ内(杉並区)と6カ所の火葬場を持つ。東京23区内にはほかに公営が2カ所、別の民営が1カ所しかないから、東京博善の寡占ぶりは明らかだ。18年3月期の売上高は86億円。それに対し純利益は18億円にも上り、たいへんな高収益を誇る。

 じつは実業家・木村の類い希なる経営手腕により、東京23区の火葬場事情は全国の中で極めて特異だ。厚生労働省の統計によると、恒常的に使用されている火葬場は17年度末で全国に1437カ所。そのうち地方公共団体によるものは1374カ所と圧倒的に多い。ある種の迷惑施設といえる火葬場を公営が支えるのは自然の流れ。が、超過密都市である東京では移転もままならず古くからの火葬場がそのまま残った。全国一の巨大市場・東京で寡占を続ける東京博善が高収益なのは自明の理である。

 ゴルフ場事業にのめり込んだ廣済堂はバブル崩壊で痛手を被り、90年代以降は守りの経営に徹した。92年に兄弟会社の関西廣済堂(99年に本体と合併)を上場させ、97年に本体が東証に上場したのも財務改善が最大の目的だったと思われる。

 一息ついた廣済堂は2000年代に入ると、ゴルフ場を次々売り払った。03年に福島・茨城両県内のゴルフ場を売却した先は後藤組幹部と接点のある人物が経営する会社だった(奇しくもその人物は11年にレノの申し立てにより破産している)。13年にはゴルフ場事業主力の廣済堂開発を在日コリアン系と見られる合同会社に売却。それからわずか1年後、廣済堂開発は倒産。この一件は業界で物議を醸した。かつて国内外に20コースを超えるゴルフ場を持っていた廣済堂だが、今や実質的に全面撤退している。

都民の「終の場所」をめぐる諸事情

 そうしたなか、櫻井氏が東京博善を核に墓地ビジネスへと手を広げようと試みたことがある。数少ない攻めの一手だった。00年、知り合いが経営する千葉県内の大規模墓地「成田メモリアルパーク」を支援したのである。メーンバンクの徳陽シティ銀行が破綻してしまい墓地経営会社は巨額の債務に喘いでいた。そこで廣済堂は10億円を限度に資金支援に乗り出し、実質的に傘下に収めたのだった。

 祖業の印刷・出版業が構造的な低迷に苦しむなか、櫻井氏は東京博善を上場させる考えだった。同社の企業価値を顕在化させようとしたわけだ。そんな折、同氏は水面下で東京博善株の買い増しをせっせと行っていた。01年から02年にかけてのことで、取得先は東京生命など1社・3個人。01年10月、東京博善は6億7000万円の株主割当増資を実施しているが、櫻井氏は廣済堂への割り当てを意図的に失権させ、自らが代わりに引き受けている。要は個人で得られる上場益をできるだけ増大させようとしたのである。

 しかし、この不届きな企みは03年頃、失敗に終わる。上場計画に対し僧侶や宗教法人など他の株主からの反対が強かったためだ。櫻井氏といえども歴史的つながりの深いそれら少数株主を無視することはできなかった。許認可権を持つ自治体の理解が得られなかったことも大きかったという。櫻井氏は買い増した東京博善株(発行済み株式の7.6%)を取得価格で廣済堂に譲渡することを内々に決めたが、実行直前、病に倒れ、04年11月13日、帰らぬ人となった(東京博善株譲渡はその後、相続人により実行された)。

 現在、廣済堂が握る東京博善株は発行済み株式の60.9%。合併など重要事項を単独では決議できず、94法人・284個人に上る少数株主の意見に耳を傾けざるを得ない。10年あまりの月日を経た今日だが、株式公開など市場の荒波に直接晒される策は受け入れられるものだろうか。

 葬儀費用の低落傾向や到来する人口減少社会を踏まえると、火葬場ビジネスは寡占業者といえども安泰でないのが実情。実際、5年前に36億円に上った東京博善の経常利益は年々下がり続け18年3月期には26億円だった。櫻井氏が乗り出した墓地ビジネスもその後失敗に終わったのが実情だ。現在、会社側はMBO実施にあたり火葬場ビジネスの先行きに関し厳しい見通しを公けにしている。

 今後、廣済堂をめぐる対立が深まれば深まるほど、知られざる都民の「終の場所」をめぐる諸事情がクローズアップされることになるだろう。その行方についての関心も高まるはずだ。そうなれば世間の声を無視することもしづらい。確かに東京博善は廣済堂グループにとってカネのなる木ではある。が、資本の論理をかざす海千山千の強者といえども一筋縄ではいかない難物であることも確かだ。
(文=高橋篤史/ジャーナリスト)

高橋篤史/ジャーナリスト

高橋篤史/ジャーナリスト

1968年生まれ。日刊工業新聞社、東洋経済新報社を経て2009年からフリーランスのジャーナリスト。著書に、新潮ドキュメント賞候補となった『凋落 木村剛と大島健伸』(東洋経済新報社)や『創価学会秘史』(講談社)などがある。

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