
野田市の小4女児虐待死事件で母親が逮捕されたことに関して、DV被害者を支援するNPO法人「全国女性シェルターネット」が2月13日、DV虐待事案として対応を求める声明を出した。そのなかの「少女の母親は、まず、保護されるべきDV被害当事者であり、決して逮捕されるべき容疑者などではない」という文言に対し、賛否両論の声が上がり、ネットを賑わせていた。
否定的意見を一部拾うと、次の通りだ。
「普通の人だったらまったく気持ちはわからないし、両親ともに同罪だと思う」
「母親を擁護する声があるが、全然理解できない」
「DV被害者を守る活動は立派です。じゃあ、この母親が心愛ちゃんにしたことはDVではないの?」
このような手厳しい意見を言う人は、幸いなことにDVや虐待とは無縁の人生を送ってきたのだろう。「まともな母親だったら、何があっても子どもを守るものだ」という健全な固定観念が根底にある。
しかし、繰り返されるDVがまともな感情も判断力も奪っていくことを、私は長年自分の母親を見て思い知らされている。
DVによる後遺症で人格障害になった母
私は父の母に対するDVが常態化した家庭で育った。子どもに害はおよばなかったものの、お酒を飲むと怪物になる父が怖くて、その般若のような顔や怒鳴り声に、寒くもないのに歯がガチガチ鳴り、体の震えが止まらなかった。私はいつも父の顔色を窺い、逆らうようなことは一切しなかった。一言でも逆らったら、今度は怒りの矛先が自分に向くのではないかという恐怖感があったからだ。
小2のとき、同じ学校の男児が父親に殺される事件が起きた。ノイローゼを患っていた父親が母親の発した言葉に腹を立て、台所から包丁を持ち出して母親を刺殺、「やめて!」と母親をかばった息子も刺したという。
この新聞記事を読んだとき、私は猛烈な罪悪感に襲われた。
「わが身可愛さで母親を助けようとしない自分は、身勝手な娘ではないのか」
私はそれまで、父から母をかばったことが一度もなかった。ただただ怖くて、震えていることしかできなかった。それでいながら、「いつか父も包丁を持ち出すのではないか」という恐怖にも苛まれ、相反する思いがせめぎあい、混乱した。
平成16年の児童虐待防止法改正により、子どもの目前で配偶者に対する暴力が行われることが心理的虐待にあたることが明確化されたように、子どもの頃の私は深く傷ついていた。
私が高1のとき、母は突然家を出た。兄の大学受験の2週間前のことで、兄は受験に失敗したこともあり、母を許そうとしなかった。まともに考えれば、何も息子の大学受験直前に決行する必要はないのに、母は20年間のDV生活により判断力を失っていた。