時事問題・ジャーナリズムに関するニュース

新種のコロナウイルス・オミクロン株の蔓延によって、人間関係がまたもや陰鬱とした閉鎖性に囚われ始めている。
私の妻は先日、体調不良で伏せる実父を安心させるために郷里の北海道に帰省した。しかし、同居する兄夫婦ははるばる訪ねてきた妹と直に会おうとせず、ドア越しに少々会話を交わしただけ。実家に寝泊まりすることも兄に許されず、結局は叔母宅に泊めてもらった。マスク着用はもちろんのこと、PCR検査で陰性が確認されているにもかかわらず、である。
私にしても「コロナが落ち着いたら」と取材相手に取材の延期を告げられるばかりで、取材が遅々として進まず、したがって書くこともままならない状態に置かれている。
「電話取材か、リモート取材にしたら?」と周囲に進められてはいるが、どうもその気になれないのが正直なところである。
週刊誌記者だった若い頃、上司の編集者や先輩記者にこう言われてきた。
「どんな短いコメントをもらうにせよ、なるべく相手に会うように」
そのアドバイスに従って、どんな短いコメントであろうが、東奔西走して直に取材した。確かに対面取材だと、相手の表面上の言葉だけでなく、表情の変化や含み持った言葉の意味を探ることができる。取材の後、飲みに誘ったところ、そこで取材中は出し渋っていた本音を吐露されたことも、たびたびあった。
対面取材で思わぬ情報を得て、それがスクープへと発展したことも何度かある。某プロ野球球団のある首脳陣などは、対面取材で私のことを気に入ってくれたのか、以来、何度か重要な情報を私に与えてくれた。
足を使う現地取材、対面取材は、私が週刊誌を離れ、フリーランスになってからも、私に思いも寄らない宝物を与えてくれた。
大場政夫に敗れた元チャンプの取材
思い出すのは、1988年、初めてタイに観光で赴いたときのこと。世界王者のまま愛車もろとも首都高速に散った大場政夫の最後の対戦者チャチャイ・チオノイ(大場が逆転KOでタイトル防衛)が、当地にいることを思い出したのは、帰国当日のことである。
私は急きょ通訳を雇うと、当地の新聞記者にチャチャイの居場所を聞いてもらった。バンコクから車で1時間以上もかかる僻地で悠々自適に暮らしていることがわかり、私はさっそく通訳を伴い、チャチャイのもとに向かった。
3度の世界タイトル奪取を成し遂げ、「タイの英雄」と称されていたチャチャイは、私たちを笑顔で迎え入れてくれた。しかし、帰国便の出発時間が迫っていたため、私はチャチャイに十分な話を聞けることなく、早々に空港に向かっている。
「チャチャイにもっと話を聞きたい」と私が再びタイを訪れたのは、その翌1989年のこと。そして、このとき思わぬ出会いがあった。
バンコクのラジャダムナン・スタジアムでタイの国技ムエタイを観戦中、2万人の大観衆の中に、どうも気になって仕方がない人物を見つけたのだ。スポーツ刈りだった頭髪は七・三に分けられ、精悍だった顔つきにも丸みが帯びている。当時の面影は失せていたが、私は迷いを振り払うと、彼に近づき、片言の英語でこう聞いた。