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「参勤交代で諸大名を疲弊」は間違い?江戸幕府、264年も安寧の知られざる秘密

取材・文=文月/A4studio
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徳川家康の肖像画(作:狩野探幽)

 江戸幕府を開いた徳川家康の生涯を描くNHK大河ドラマ『どうする家康』が8日にスタートする。264年あまりも存続した江戸幕府。幕末まで大きな動乱もなく幕府による盤石な支配が続いたことから、歴史好きの間では長続きした理由をめぐって考察合戦が繰り広げられることも珍しくない。たとえば10月にもとあるTwitterユーザーが投稿した以下ツイートが、1.4万以上の「いいね」を獲得して話題になっていた。

<Q 鎌倉幕府や室町幕府がなぜ江戸幕府みたいに安定しなかったの?
A.江戸幕府がおかしいんだよ これに尽きる>

 ツイートでは、江戸幕府以前に成立していた鎌倉幕府、室町幕府と比較して、江戸幕府が安定して長続きしたことについて指摘している。鎌倉は150年、室町は240年ほど続いた長期武家政権ではあるものの、前者は将軍家の嫡流が途絶え、後者は守護大名の力が強くなり幕府の力が弱体化するなど盤石な基盤を誇っていたとはいいがたい。

 対して、江戸幕府は飢饉や天変地異による自然災害に見舞われたものの、国家を揺るがすほどの戦乱がなく、経済、社会が発展した時代だ。SNS上では歴史好きのネットユーザーの考察が繰り広げられており、いかに江戸幕府が優れた統治をしていたかについて各々が語っていた。

 そこで今回は江戸時代に詳しい歴史研究者である、三重大学 人文学部 文化学科准教授・高尾善希氏に、江戸幕府がなぜ長期間安定して存続していたのかについて解説してもらった。

幕府を開いた徳川家康の力が繁栄の礎だった

 江戸幕府が強靭な体制を敷くことができた根底には、もともと幕府を開いた徳川家康自身が大きな大名として領地を治めていたことが要因として挙げられるという。

「竹千代(家康の幼名)は三河国の松平氏という国人領主(小規模な土地を収める領主)の家系に生まれました。松平氏は隣国の今川氏や織田氏に挟まれており、竹千代は今川氏に人質に取られます。しかし1560年の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ったことをきっかけに独立し、三河を治めます。1563年には名を当時の元康から家康へと改名、1566年には徳川へ改姓しました。

 その後、今川氏が弱まり、武田氏が滅んで、1582年の本能寺の変で織田信長が討たれると、家康は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃という5国を治める大大名へ出世するのです。そして、1590年の小田原合戦で北条氏が滅びると、家康は豊臣秀吉の命で関東に移動させられ、それまでの領地を召し上げられた代わりに、北条氏の領地であった関八州を手に入れ、豊臣政権の重鎮として力を増していきます」(高尾氏)

 その後、秀吉が亡くなり、家康は1600年の関ヶ原の戦いで勝利し天下を取った。そして、1601年に征夷大将軍に任命され、1603年に江戸で幕府を開くことになる。こうした盤石な勢力基盤があって江戸幕府は安定した支配体制を築くことができたのだ。

「家康は信長の同盟者として、当初からかなり大きな勢力を持っており、徐々に領地を拡大していきました。徳川氏は江戸時代中期には400万石もの領地を治めており、佐渡金山や石見銀山などを手に入れ、通貨発行権を独占。江戸時代以後の最も大きい大名である前田家の領地が100万石であることを考えると、徳川氏と普通の大名では力の隔絶がありすぎたのです。いかに徳川氏が領地的、財政的に飛びぬけた大名であるかがおわかりになるでしょう」(同)

 これは鎌倉幕府、室町幕府とは対照的だと高尾氏は続ける。

「鎌倉幕府を開いた源頼朝は、父・義朝が平治の乱で敗れ、伊豆国に流されましたので、ほぼ一兵も持っていませんでした。しかし、清和天皇を祖に持つ清和源氏の一流である河内源氏の生まれであったことから南関東の豪族たちに担がれ、平家を討つため挙兵することになります。結果的に勝利したものの、もともとの勢力基盤が弱く、頼朝の嫡流も3代で途絶えてしまいました。

 一方、室町幕府を開いた足利尊氏も清和源氏の流れであり、鎌倉幕府執権の北条氏から嫁をもらう有力な御家人でした。そして、南北朝の動乱の際に尊氏が挙兵するのですが、足利氏の分家で有力家臣でもあった斯波氏、吉良氏、今川氏が活躍します。その後も有力家臣の力が強く、『御所巻き』といって、将軍家が言うことを聞かなかったら御所を取り巻いて政治的なデモンストレーションを起こしていたほどです」(同)

誤解されがちな参勤交代

 また、江戸幕府が行ってきた諸政策も長続きした理由だという。

「江戸幕府が長期政権化した要因として、よく考えられているのが参勤交代です。ただ世間でよくいわれている『諸大名に多額のお金を使わせ、軍事的、経済的に疲弊させた』という説は大きな間違いなので注意しましょう。参勤交代は将軍家が軍事的危機に陥ったときに備えて、家来の大名たちの軍隊をプールしておくことを目的とした制度です。

 鎌倉幕府では鎌倉大番役、京都大番役など御家人を収集して、鎌倉幕府・朝廷を守護させる役割がありましたが、大量の軍隊を常にプールすることはできませんでした。幕府に軍隊を集中できないことは将軍権力の弱体化にもつながりますが、参勤交代によって莫大な兵力を江戸に蓄えることができたからこそ、江戸幕府は権力を集中させることができました。むしろ、江戸幕府としては、大名が参勤交代で費用をかけすぎるのは元も子もないことなので、出費を抑えるような法令もしくはお触れまで出していたのです」(同)

 参勤交代によって得た兵力によって江戸幕府の支配は絶対的なものへと化した。また江戸時代は長続きした半面、一揆も多かったものの、武士と敵対関係を築くまでには至っていなかったという。

「百姓が一揆を起こす理由は、主に年貢の取り立て量の交渉や悪い代官への直訴にありました。幕府としても、『百姓をむやみに殺してはいけない』と注意していたので、百姓に慈悲を与えて統治しようとする気概はあったんです。当の百姓側も年貢を払うことによって自分たちの生活圏を守ってもらうという考え方が戦国時代以来根付いていたので、武士と対立するケースはほとんどありませんでした」(同)

 そして、武士同士が領地を取り合うことが劇的に減ったことも平和が続いた要因になったそうだ。

「戦国時代が終わり、武士たちは領地を取り合うのではなく、耕地を開発していく時代へと移り変わりました。実は電車の車窓などから見える田舎の田んぼの景色は、ほとんど江戸時代から当たり前になったんです。具体的な数字でいうと、室町中期の耕地が100だとすると、江戸時代初期は172、中期は313、幕末は322となっており、幕府や藩が耕地開発に勤しみました。

 戦国時代は敵の領地に行ってものを盗んだり、女、子供をさらったり、収穫前の稲を刈り取ったりととにかく荒んでいた時代です。それが戦をしなくても、領地を手に入れられるようになったので武士の出世も平和的な手段を用いて行われるものになりました。こうして大きな戦乱もなく、争う必要がなくなったので結果的に平和な時代が続いたのだと考えられます」(同)

 江戸時代が確固たる支配を存続できたのは、徳川氏の強さが前提にあったことはもちろん、諸制度の有用性や時代的な流れによる面も大きかったのかもしれない。

(取材・文=文月/A4studio)

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エーヨンスタジオ/WEB媒体(ニュースサイト)、雑誌媒体(週刊誌)を中心に、時事系、サブカル系、ビジネス系などのトピックの企画・編集・執筆を行う編集プロダクション。
株式会社A4studio

Twitter:@a4studio_tokyo

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