そこでゲイツはようやく、プラットフォームの重要性に気がつくこととなった。マイクロソフトは当時自社ではOSを開発していなかったので、他社からOSを買い取り、DOSというソフトウェアを開発し、IBMに納品した。マイクロソフトは、IBMがOSの開発依頼をした4社のうちの1社に過ぎなかった。
では、なぜマイクロソフトだけがその後、OS市場の覇権を握るプラットフォーマーとなり得たのだろうか。それは、ゲイツの時代を見通す力と巧みな契約交渉術による。
ここで読者の方々に質問したい。もしあなたが当時のゲイツの立場であったら、以下の3つのどの条件をIBMに提示するだろうか。
(1)高額でIBMにOSを売却(1回だけの売り上げだが高額)
(2)IBMのPCにOSがインストールされるごとに、ライセンスフィーとして代金をもらう(IBMのPCが売れれば、莫大なライセンスフィーを得られる)
(3)開発に要した少額のコスト分だけを請求し、ライセンスフィーもなし
通常のメーカー発想の経営者であれば、(1)を選ぶだろう。またリスクがあるが将来の普及を予測する経営者であれば(2)を選ぶだろう。
しかし、ゲイツが選んだのは(3)だった。もし(1)や(2)を選んでいたら、マイクロソフトは一ソフトウェア開発受託会社として終わっていたかもしれない。しかし、ゲイツは「10~20年後には個人一人ひとりが、PCを持つ時代がくるだろう。そしてハードウェアは低価格化陳腐化していく中で、ソフトウェアというプラットフォームが覇権を握るだろう」と業界全体の将来像を予測し、それを確信していたのだ。
ゲイツはIBMにひとつだけ条件をつけた。それは「マイクロソフトのOSを、他社にも提供できる」というものだった。
当時IBMはチップを開発し、そのチップがなければOSは作動しない仕組みを採用することで他のPCに模倣されないような対策を打っていたが、IBMは(3)の格安な条件を承諾してしまった。これが、その後の両社の運命を分けることになった。
業界全体の未来予想
1981年にIBMがPCを発売後、リバースエンジニアリング、つまりIBMの完成品を分解して同様のものを複製する方法によって、コンパックなどの中小メーカーが数多く誕生した。こうした企業たちは、IBMのチップがなくてもOSが動くようにしてしまったのだった。そしてマイクロソフトはそれら中小メーカーに対して自社のOSを極めて低価格で提供することで、一気に90%近い市場シェアを奪うことに成功した。
ここでも、マイクロソフトの契約交渉力が奏功した。「搭載されたPCの台数」ではなく「出荷されたPCの台数」に応じて極めて低い水準のライセンス料を受け取るという契約を結んだのだった。前者の形態でライセンスフィーを得る契約が一般的だろう。しかし同社は、「OSが搭載されたかどうかを確認するのが難しいので、激安価格でよいので出荷ベースで」と交渉したのだった。