「赤・和民」から「黒・和民」への転換
ワタミは1984年5月、居酒屋の神様と呼ばれる石井誠二氏が創業したつぼ八とFC契約を締結、第1号店として居酒屋「つぼ八 高円寺北口店」を改装オープンした。時代は空前絶後の居酒屋ブームだった。酎ハイブームの元祖である居酒屋「村さ来」には、年間200店舗近くがFC加盟した。一流企業に勤めるサラリーマンが脱サラしてFCに加盟し、一旗揚げようとした。
ワタミ創業者の渡邉氏は92年に自社ブランドの1号店、和民 笹塚店を開店した。その結果、つぼ八とのFC契約の解消に追い込まれ、つぼ八の店舗を順次和民に変更した。この時の渡邉氏の決断が大成功し、和民の快進撃が始まった。
ワタミのビジネスモデルは、洋風居酒屋のつぼ八の成功モデルを進化・発展させたものだ。駅前や繁華街のビルの空中階(2階以上、1階の路面店より家賃が安い)に100坪以上の店舗を借り、150~200席前後の大箱をつくった。カップル、グループ、ファミリー、宴会需要などに対応、総合型タイプの居酒屋で客単価3000円以上、20~30代の若者に支持された。
ワタミは当初手づくり料理にこだわり、店長、調理長以下一丸となって、冷凍食品を使わずに店舗で手づくりの仕込みを行なっていた。これがワタミの人気の秘密であったが、これだと手間暇がかかって多店舗化が遅れる。
ワタミが東証2部に上場した98年、すかいらーくグループ出身の桑原豊前社長が和食レストラン「藍屋」の創業を経験して、ワタミに入社した。営業本部長、常務取締役などを歴任、09年に社長に就任、渡邉氏は会長に就き、桑原―渡邉の二人三脚体制が確立した。桑原氏は「店舗運営の合理化、システム化に優れ、コストカッターの専門家だ」(ワタミ関係者)といわれる。桑原氏がワタミに入って1年後の99年頃から、集中仕込みセンター「ワタミ手づくり厨房」(略称、センター)が建設され、調理の合理化が進んだ。
「このセンターがワタミの大量出店の原動力になりました。それまでワタミは店長や調理長のレベルが高く、プロ意識が強かった。店舗オペレーションの能力、質も高く、白木屋(モンテローザ)やつぼ八、村さ来などと競合しても勝ってきた。けれども、センターがつくられ大量出店が始まった結果、人材育成が間に合わず、店長や調理長のレベルが低くても登用せざるを得ない状況が起こってきました。センターがワタミのひとつの転機になったと思います」(ワタミ関係者)