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中村芳平「よくわかる外食戦争」

ワタミ、危機を招いた鳥貴族らとの低価格戦争敗北と、「黒」へ転換による客離れ

文=中村芳平/外食ジャーナリスト
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 ワタミは90年代から2000年前半にかけての急成長期、20~30代の若者やカップル、学生、社会人グループなどを取り込んで発展してきた。「赤・和民」から「黒・和民」への転換は、創業から20~30年もたったことにもよる。ワタミの顧客も40~60代へ高齢化したことに対応、そういう顧客を呼び戻す作戦であった。

 ところが、予想外の失敗だった。ワタミの客は「黒・和民」に転換しても20~40代と若かった。結果的に「黒・和民」への転換で中核となる顧客離れが起こってしまった。これをきっかけにワタミの既存店売上高は、今年9月まで42カ月(3年6カ月)も前年対比を割り込むのである。

 和民のブランドに固執した結果、ワタミは時代の変化に対応できなかったのである。

大復活のカギ

 ワタミが2期連続大幅赤字という絶体絶命の危機から立ち直るためには、傷ついた和民ブランドを捨てる覚悟が必要だろう。かつて、すかいらーくがダメージを受けたファミレス「すかいらーく」のブランドを捨てて復活を遂げたように、ワタミも和民ブランドを捨てて、新しく出直すべきだ。

 総合型居酒屋、和民依存からの脱却は、ワタミ自身が進めていた。桑原豊前社長時代の10年4月、社員の独立を支援する炭火串焼きの「炭旬」直営第1号店の綾瀬店をオープンした。11年8月、ジャパニーズ・ダイニング「ゴハン」を改装し、BARU&DINING「GOHAN」1号店の新宿3丁目店を開店した。14年1月、中華料理「WANG’S GARDEN(ワンズガーデン)武蔵小杉店」を開店、14年3月「炉ばたや 銀政 銀座数寄屋橋総本店」をオープンした。訪日外国人向けに、英語、中国語、韓国語のメニューが用意してある。

 このほかにもワタミは、串揚げと餃子の専門店「揚旬」、地産地消の「石巻酒場 わたみんち」「ニッポンまぐろ漁業団」など、脱・和民のブランドを立ち上げている。そして、今年11月に開店した完全予約制のインバウンド(訪日外国人)専門の日本食店「銀政-GINMASA」六本木店へと続く。

 ワタミの桑原前社長は筆者が14年6月にインタビューした時、次のように語った。

「1業態3ケタ出店(100店舗以上)」を念頭に展開してきた。だが少子高齢化、人口減少社会、若者のアルコール離れなど飲食業界を取り巻く環境が激変するなかで、1業態で500~600店舗を出すのが難しい時代に入った。これからは専門店化、多様化をキーワードに、1つのブランドで20~30店舗展開、10ブランドで200~300店舗展開するというのが、チェーン店の店舗展開の考え方になるのではないでしょうか」

中村芳平/外食ジャーナリスト

中村芳平/外食ジャーナリスト

●略歴:櫻田厚(さくらだ・あつし)

1951年、東京都大田区生まれ。高校2年生の時に父が急逝し大学進学を断念、アルバイトして家計を助ける。都立羽田高校卒業、広告代理店勤務。72年に14歳年上の叔父(モスフードサービス創業者・櫻田慧)に誘われ「モスバーガー」の創業に参画。フランチャィズ(FC)オーナーなどを経て、77年に同社入社。直営店勤務を経て教育・店舗開発、営業などを経験。90年、初代海外事業部長に就任、台湾の合弁事業の創業副社長として足掛け5年半でモスバーガーを13店舗展開。1985年の株式上場と244店舗展開(16年9月末)、そして同社の海外展開の基礎をつくった。慧氏は97年にくも膜下出血で急逝、享年60。櫻田氏は98年社長に就任、14年会長兼社長に就任し、今年6月、社長を常務取締役執行役員の中村栄輔氏(58)に譲った。社長交代は18年ぶりのことだ。櫻田氏は中村氏に国内事業、新規事業を任せ、海外事業に全力を注ぐ構えだ。「モスバーガー」を世界のブランドにするという、夢の実現に向かって挑戦しようとしている。

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