藤野氏は、そう言うとステージ上でしばらく言葉を詰まらせ、涙を見せた。その瞬間、2000人の観衆は、割れんばかりのスタンディング・オベーションで応じた。会場全体が一体になった瞬間であった。ホンダは、30年を経て、その社史上、いや航空機史上に、歴史的なマイルストーンを築いた。2000人の大喝采を浴びる藤野氏を見ながら、私は、なぜホンダに、これほどのことができたのかと、考えざるを得なかった。
たとえば、巨大企業のトヨタに同じことができるかといえば、おそらく「否」ではないだろうか。「夢」とか、「宗一郎のスピリット」という言葉を使えば、それらしく聞こえるだろう。だが、現実は、それほど甘いものではなかったはずだ。ホームカントリーの日本ではなく、「アウェイ」の、それも米国という世界一の航空大国で、日本のいち自動車メーカーが航空機市場参入を成し遂げた背景には、より深く、重大な意味があるのではないか。
ホンダは、基本理念として、人間を丸ごと尊重する「人間尊重」を掲げる。さらに、「よそのマネはするな」「よそにないものをつくれ」という、宗一郎以来の社風がある。「技術の前に、すべての技術者は平等である」という言葉もあるように、「技術」と「個人」を尊重し、他社にはないものを開発することで、独自性を打ち出してきた。だからこそ、「HONDA」は、いまだに世界的に高いブランド力を誇る。
一方のトヨタは、トヨタウェイに「人間性尊重」を掲げる。ホンダの「人間尊重」に対して、「性」すなわち人間の「能力」を尊重するのだ。「人間」すなわち「個人」の「失敗も成功も含めて丸ごと尊重」するホンダに対し、トヨタは、「人間性」すなわち、人間の秘めたる可能性にかけて挑戦する「能力」を「尊重」する。それは、「人間性尊重」と並んで、トヨタウェイに掲げられる「知恵と改善」につながるものだ。
トヨタは「人間性尊重」を掲げ、いわば「組織の強さ」によって現在の地位を築いた。一方のホンダは、「人間尊重」を掲げ、いわば「個人の強さ」によってブランド力を築いてきた。それが、ホンダに「ホンダジェット」をつくることができた理由ともいえるのではないか。ホンダは、30年もの間、一円の利益もあげない航空機の研究開発を継続した。藤野氏はまた、それを担って走り続けた。任せたホンダの「人間尊重」の社風と、任せられ、やり切った藤野氏の「個人の強さ」が、「ホンダジェット」の実現につながったといえる。
宗一郎は、「1%の成功は99%の失敗の積み重ね」と語っていた。インタビューの最後に、藤野氏に、「成功ばかりではなかったでしょうね」と話を向けると、彼は、こう答えた。