ダイエーが出てこない地方への出店へと戦術を変えた。ダイエーは人口30万以上の都市に出店したが、ジャスコは人口3~5万人の小都市を狙った。破竹の勢いで拡大を続けるダイエーを尻目に、卓也氏は地方への出店に徹し、力を蓄えた。
雌伏15年。卓也氏はダイエーに戦いを挑んだ。84年4月、埼玉県川口市に大型店を出店したのを皮切りに、ダイエーの地盤といわれた太平洋ベルト地帯に超大型店を次々とオープンした。
このときのジャスコは、かつて尻尾を巻いて退散したジャスコではなかった。ジャスコがダイエーの近くに出店すると、今度は、ダイエーの店舗が次々とシャッターを下ろすことになった。流通業界では、これを「(ジャスコの)弔い合戦」と呼んだ。
ダイエーに勝利した卓也氏は、89年9月、グループ名をイオンと命名した。イオンはラテン語で永遠を意味する。
バブル崩壊が両社の明暗を分けた。イオンは総合スーパー中心のビジネスモデルから、郊外型ショッピングセンター(SC)に転換した。数多くの専門店やアミューズメントの施設を揃えた大規模なショッピングモールを全国で120も展開、SC事業は営業利益の22%を叩き出す収益の柱となった。
かつて小売業のトップだったダイエーは、バブル崩壊後に多角化の失敗で経営が悪化。2004年に官製ファンド・産業再生機構の支援を仰ぎ、なんとか倒産を免れた。06年に丸紅が44.6%の株を取得して子会社にした。07年にはイオンが丸紅からダイエー株を買って第2位株主になった。だが、業績不振に歯止めがかからず、13年2月期の当期損益は37億円の赤字になる見通しだ。赤字の計上は5期連続になる。
884億円を投下し、歴代の社長を送り込んできた丸紅は、ダイエーを再建できなかった。丸紅社内では「(ダイエーは)最大の失敗案件」と囁かれていた。
岡田社長は「誰が責任者なのかはっきりしなかったことで、ダイエーは再建できなかった」と言い切る。商品の供給は丸紅、店舗の運営はイオンという役割分担だったが、無責任体制になってしまった。結局のところ、丸紅に小売業をハンドリングする経営ノウハウがなかったということだ。丸紅が保有している株式のうち約5%を残すのは、ダイエーへの商品の納入(推定で年間700~800億円)を継続するためだというが、イオンとイオンの筆頭株主の三菱商事がそんなことを許すとは思えない。丸紅はどこまで甘いのか。この際、全株を売却してダイエーから撤退すべきだったのだ。
イオンと丸紅は08年まで提携関係にあったが、イオンは突如として三菱商事から5%出資を受け入れ、三菱商事が筆頭株主になった。丸紅は、この時、イオンを失い、今度はダイエーの商権を失うことになるだろう。
ダイエーはかつてのライバル、イオンに呑み込まれることになったが、中内・ダイエーが流通業界に残した足跡は消えることはない。中内氏の安売り哲学は、「いくらで売ろうと勝手」という破壊力のある言葉に込められている。それまで価格決定権はメーカーに握られていた。中内氏は「価格はわれわれがつくるんだ」と声高に言い、メーカーに対抗する力を売る側が持とうとした最初の流通人だった。
メーカーから見れば、中内・ダイエーのやり方は価格破壊そのものだった。価格破壊がなかったら、今日のコンビニエンスストアやユニクロの隆盛はなかった。中内功氏は消費者主権の先駆者だったのである。
(文=編集部)