屋台でさざえのつぼ焼き売りから大金持ちへ…儲けることに全力を注いだ「鉄道王」
この世というものは、人が来るところに情報と縁があるというもの。そうしていると、屋台の客の中にいた生糸商人の手代に「蚕卵紙の買い付けを手伝ってほしい」とお願いされる。
実は、糸平や清之助の出身地である伊那は生糸の産地だった。話を聞いた清之助はすぐに屋台をたたみ、蚕卵紙の買い付けにかかわる。そして、なんと100両を超す大金を得てしまうのだ。
屋台引きの生活から一気に金持ちへ――しかし、清之助は生糸相場にお金を投じ、無一文になってしまう。
ただし、これでは終わらぬ清之助、今度は横浜遊郭の入り口で洋酒スタンドを開業。成功を収めると、次から次へと新しい事業に乗り出し、ついにはかつて世話になった平野屋を再興してしまう。1869年のことだ。
実は、「この裏にいたのが糸平ではないか」という説がある。というのも、生糸の商売をしながら別の事業で身を立てるという流れは、まさに糸平の若い頃と重なる上、実は平野屋の没落は糸平への借金が原因だったからだ。清之助を通じて糸平が借金を棒引きすれば、平野屋はなんとでもなったはずである。
ただ、こうしたことは記録に残っていないため、想像の話でしかないのだが……。
「忘れられたヒーロー」の偉大なる功績
こうして、清之助は横浜の商売人たちから認められる存在になり、両替商仲間「横浜組」の領袖にまでのぼり詰める。
ここで、また転機が訪れる。1874年には糸平と組んで横浜金穀取引所で相場合戦を演じ、苦境に立たされた糸平が「ルールを改正する」という荒技で逆転。しかし、この一件で周囲から失望の目で見られることになったため、清之助は横浜を出て東京に向かう。
東京に出て情報を収集した結果、清之助は公債の売買が時代の中核を担うことを見据え、横浜組のメンバーらと日本橋堺町(現在の人形町)で秩禄公債の売買を始める。しかし、明治政府はこの動きを快く思っていなかったようで、横やりが入る危険性が高かった。そこで、清之助は公設の取引所設立を考え、第1回で登場した渋沢栄一の下へ相談に向かうのである。
1878年に東京株式取引所が設立されたが、清之助は公債売買をする仲買人代表としてかかわっていたようである。東京株式取引所創立証書には3番目に彼の署名が連なり、持ち株数は第2位で渋沢と同数。このことからも、当時の清之助の影響力の大きさをうかがい知ることができる。
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