東京地検特捜部は11月19日、夕刻に羽田空港に着いた日産自動車会長(当時)のカルロス・ゴーン氏に任意同行を求め、午後8時に金融商品取引法違反の疑いで同氏を逮捕した。ゴーン氏はまだ起訴されていないが、なぜ推定無罪が理解されないのかといえば、日本では検察に起訴されると99.9パーセント有罪になるからだろう。この数値はナチス以上といわれているように、世界では異様な高さである。ゆえに、国民は「逮捕されて起訴されるくらいなので悪事を働いた悪い奴」と考え、容疑者は推定犯罪者になる。日本は、推定無罪ではなく推定有罪の社会である。その仕組みを起訴の乱発を抑止する良いシステムと捉えることも可能ではある。確かに日本の検察は優秀である。
この高い有罪率のゆえに、日本の刑事司法システムは、起訴された被告には人権はないと言わんばかりに、外部との接触を遮断した事情聴取を正当化し、長期拘束による取り調べで、その過程の事後的検証すら不要としている自白と調書を偏重するのは問題であると、法曹界から指摘されてきた。
2000年代初頭に国連規約人権委員会から事情聴取過程の可視化を勧告されても、「可視化したら供述が引き出しにくくなり、本来求められている真相究明に滞りが出る」「法制化したら捜査員や検察官が萎縮する」として反発した過去がある。それを改めなかった結果が、2010年秋の厚生労働省の村木厚子元局長の無罪判決、そして大阪地検特捜部の証拠改竄という前代未聞の事件である。この正当化は、容疑者が人権意識の低い日本人であれば機能するかもしれないが、今回のように人権意識の高いフランスとアメリカの国民に対しては機能しないのではないか。
推定有罪には問題がある。なぜかというと、99.9%有罪とはいえ100%有罪ではないからである。これは可能性の問題であるが、効率しか考えない日本の為政者には理解できないようである。もし日本が法治国家であれば、近代法の基本原則である推定無罪を社会として尊ぶべきである。そもそも検察に起訴されたらほぼ確実に有罪になるのであれば、裁判所の存在意義はない。刑事事件において裁判所は量刑だけを決める存在であるという法治国家とは、珍しい存在である。人権を無視した有罪の効率化を求めた結果、近代法の精神・合理性を見失った。これは、理念を理解することなく制度のみを移入し、効率的に運用するという典型的な日本社会の現れの一つである。