そんな時、関西の中堅商社、伊藤萬(のちにイトマンに社名変更)から提携の申し出が舞い込んだ。株式上場を考えていた石井氏は、この話に乗った。82年に伊藤萬との共同出資で株式会社つぼ八を設立。つぼ八は店舗数を順調に増やした。
居酒屋チェーンの先駆者は「養老乃滝」と「天狗」だが、「つぼ八」と「村さ来」の新興勢力が80年代からの居酒屋ブームを牽引した。草創期のつぼ八で働いていた2人の若者がいた。「ワタミ」の創業者の渡邉美樹氏と「モンテローザ」の創業者の大神輝博である。
伊藤萬社長の河村良彦氏は、当初、つぼ八の株式上場によりキャピタルゲインを得るつもりだったが、「儲かる事業だ」とわかり乗っ取りをもくろんだ。
伊藤萬はつぼ八に役員を順次送り込み、「経営指導料」という名目で年間1億円の利益を強制的に吸い上げた。85年9月には、北海道つぼ八を合併(存続会社はつぼ八)し、伊藤萬が株式の70%を保有する。
87年10月14日、つぼ八の臨時取締役会で伊藤萬出身の取締役が社長解任動議を出した。社長の石井氏が「社長の印を勝手に持ち出した」というのが解任理由だった。賛成多数で可決され、石井氏は14年かけて一から育てたつぼ八から追われた。
400店舗を展開するつぼ八乗っ取り事件で、伊藤萬の信用は失墜した。河村氏はほかにも、石油転がし(業転)による訴訟、ワンルームマンションの杉山商事の倒産、霊感商法として批判を集めていたハッピーワールドへの融資などで悪名を轟かせた。
住友銀行(現三井住友銀行)出身の河村氏は、同行頭取・磯田一郎氏の“汚れ役”として暗躍。住友銀行による平和相互銀行の買収の際には、平相創業家の小宮山一族から株式を取得する川崎定徳氏のために、子会社のイトマンファイナンスから融資を引き出し、住銀の平相買収において“裏の主役”の役割を果たした。
河村氏は拡大路線の切り札として“地上げ屋”の伊藤寿永光氏を伊藤萬に入社させた。その後、伊藤氏を通じて許永中氏と関係を持つようになる。そして91年、3000億円が闇社会消えた戦後最大の経済事件「住銀・イトマン事件」が火を噴く。
伊藤萬は91年、イトマンに社名を変更。93年に住友金属工業の子会社で鉄鋼専門商社の住金物産に吸収され、消滅した。つぼ八の大株主はイトマンから住金物産に変わった。
2012年、住友金属工業と新日本製鐵が合併、新日鐵住金が誕生。これに伴い13年、住金物産は新日鉄系の専門商社、日鐵商事と合併、日鉄住金物産となる。日鉄住金物産は19年4月に日鉄物産となり、住金が社名から消える。
つぼ八の大株主は経済変動のたびに変わったが、元はといえば、伊藤萬に乗っ取られたことに端を発する、生々流転である。
つぼ八を追われた石井氏は89年、八百八町を設立。干物居酒屋「ひもの屋」を始めた。再起を目指し、70店舗まで店を増やした。13年2月、M&A(合併・買収)を武器に飲食チェーンを買収している新興企業のサプライムに売却して居酒屋業界から足を洗った。
(文=編集部)