ちなみに、彼の前の首席チェロ奏者候補は、英国の世界的オーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団の首席を務めた有名な奏者でしたが、そんな彼でも試用期間をパスできなかったぐらい、首席チェロに対する基準は厳しいものでした。そのため、この新人首席奏者の緊張感は大変なもので、毎回、冷や汗をかきながら弾いていたのを覚えています。
そんな彼が、出張公演の後、くたくたになりながら、長い時間ドライブをしたのち自宅に到着したのは、もう日付が変わろうとしていた深夜。彼は、玄関先にチェロを大事に置いて、ポケットから家の鍵を出して、家に入りました。そのまま、ベッドに倒れ込んでしまったのかもしれません。
彼が翌朝起きて真っ先に考えたのは、大事なチェロがないことでした。昨晩のことを思い出してみると、玄関先に置いたチェロを家に入れた記憶がありません。慌てて外に出てみると、3億8000万円のチェロが消えてなくなっていました。その後の警察の捜査で、チェロを自転車に積んで走り去る男の姿が防犯カメラに収められていたのですが、発見には至りません。540万円の懸賞金をつけて捜索しても、まったく手掛かりはつかめませんでした。その新人首席奏者は、その後、自分のチェロを弾いていたのですが、毎日、真っ青な顔をしていて、僕も挨拶をためらうほどでした。しかし、しばらくして事件は急展開し、奇跡的に見つけられたのです。
その顛末は、奇想天外でした。犯人はチェロを盗んだものの、すっかり持て余してしまったようです。もし、彼がそのまま楽器屋に売りに行けば、そこであっという間に逮捕となったでしょう。犯人は、そのまま楽器ケースごとゴミ捨て場に捨ててしまいました。
そこに偶然、クルマで通りかかった女性が信号待ちしていると、なにやら面白い形のケースを見つけました。何も知らないこの女性が、クルマから降りて中を見てみると、古いチェロが入っています。そばにいたホームレスの男性の助けを借りてクルマに詰め込んで家に帰り、家具職人のボーイフレンドに見せながら、あるアイデアを思いつきました。
「この楽器は形がユニークなので、CDケースにしたらおしゃれじゃない」
「そうだね。また、時間がある時に、つくってあげるよ」
おそらく、こんな会話があったのでしょう。しかし、幸運にも当時ボーイフレンドは仕事が忙しかったので、加工されることはありませんでした。1896年のロンドンにおいて、ドヴォルザーク『チェロ協奏曲』の世界初演に使用された名器「ジェネラル・キッド」は、無造作にベッドの下に押し込まれたままだったのです。
それからしばらくたち、彼らは友人の家で行われていたホームパーティーに出かけた際に見たテレビのニュースで事件を知り、チェロは本来の持ち主の元へ戻されたのでした。
(文=篠崎靖男/指揮者)