世界で唯一無二の「マツダのクルマ」を生む、データの限界を突き破る開発手法の全貌
いかにボディの軸をつくるか
呉羽博史は1985年にマツダに入社、塗装技術部門に配属された。88年の社内公募に手をあげ、デザイン部に移籍し、クレイモデラーとなった。
「ちょうど、『RX‐7』などのスポーツカーやプレミアムなクルマをつくろうとしていた時期でした。最初は、右も左もわからないところからスタートして、それ以降、クレイモデラー一筋です。愚直にクリエイションに向き合ってきました」
97年から2001年にかけては、ドイツのフランクフルトのデザインスタジオに赴任した。スタジオで働く日本人は、彼ひとりだけだった。帰国後は、クレイモデラー統括に従事し、13年、デザインモデリングスタジオ部長に就任した。
先にも記したように、08年9月のリーマン・ショック以降、親会社のフォードはマツダの出資比率を引き下げ始め、マツダはフォードからの独り立ちを迫られた。それがマツダにとって自らのブランド価値をつくりなおす好機となった。彼がクレイモデラーを統括するようになったのは、ちょうどその頃である。
フォードからの独り立ちを機に、マツダはブランドの見直しに着手した。フォード時代のデザインをいったん白紙に戻し、過去のデザインを振り返りながら、マツダらしいクルマづくりをゼロからスタートさせていった。
マツダデザインの筆頭といえば、1989年発売の小型スポーツカー「ロードスター」だ。のちにデザイン本部長となる福田成徳がデザインした。光と影をコントロールした、豊かな面表現が特徴だ。
「ロードスター」は、後輪駆動のライトウエイトオープン2シーターのコンパクトなフォルムを持つ。4つのタイヤが地面にしっかりと足を下ろし、独特のたたずまいと安定感、ダイナミックな躍動感がある。「ロードスター」など80年代後半から90年代前半のマツダを代表するクルマには、プレスラインがない。それは、デザインに対する自信のあらわれといえる。
「正直な話、線を入れるのは簡単なんです。逆に、線を入れずに美しく見えるクルマをつくるというのは、本当に難しい」と呉羽は言う。
フォードからの独り立ちを機に、マツダは、ゼロからのクルマづくりに着手した。「念頭に置いたのは、美しいかたちの追求だった」として、呉羽は次のように続ける。
「一目見て、美しいと言わせるクルマをつくるには、骨格やたたずまいがよくないといけない。それに加えて、動きだしてからも、クルマが美しく見えるかどうかが大切になってくる。どこからどう見てもマツダのクルマに見えなければいけない。その意味でも、しっかりしたボディのたたずまいは重要なテーマでした」
モデラーの奮闘が始まった。