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日本のオーケストラだけの特殊な職、インスペクターとは?指揮者には貴重な存在

文=篠崎靖男/指揮者
日本のオーケストラだけの特殊な職、インスペクターとは?
オーケストラの意外な役職(「Getty Images」より)

「先週の指揮者は誰でしたか?」

「えーと、誰だっけ?」

 これは、客演指揮をする指揮者とオーケストラの楽員との間でよくある会話です。

 指揮者は、一定のポジションを与えられたオーケストラを活動の中心とするケースが一般的ですが、観客やオーケストラからしてみれば、いくら素晴らしい指揮者であっても、毎回同じ指揮者だと飽きてしまいます。

 たとえば欧米などでは、その指揮者は年間公演回数の3分の1程度を指揮して、3分の2はほかのオーケストラに呼んでもらう、つまり客演指揮をすることになります。指揮者のポジションは契約制なので、ほかのオーケストラで客演をすることは、次のポジションを得る就職活動でもあるのです。

 そういう指揮者だけでなく、いろいろなオーケストラから招待を受けながら、客演指揮者として毎週、違うオーケストラと自由に仕事をしている指揮者もいますし、むしろそのほうが人数は多いと思います。

 たとえば現在、スティーブン・スピルバーク監督の最新作で、今年のアカデミー賞にも7部門ノミネートされている映画『ウエスト・サイド・ストーリー』(ディズニー)の作曲家であり、指揮者としても20世紀を代表するアメリカ人のレナード・バーンスタインなどは、若くして名門ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現ニューヨーク・フィルハーモニック)の音楽監督を務めましたが、その後はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やロンドン交響楽団のような世界的なオーケストラから引っ張りだこになっても、二度とオーケストラのポジションに就任しませんでした。

 また、ちょっとしたことでもキャンセルしてしまうことで有名だったカルロス・クライバーも、天才的な指揮者でありながら一度も自分のオーケストラやオペラ劇場を持ったことがありません。この2人は、好きな曲目を、好きな時に、好きなオーケストラで指揮する、自由な客演指揮者の大スターでした。その理由には、ポジションを持つことに伴う音楽以外のさまざまな雑務を嫌ったこともあるでしょう。

今週のプログラムをこなすのも大変なオーケストラ楽員

 話を戻しますと冒頭の会話は、客演指揮者がオーケストラ楽員に、先週の指揮者は誰だったのかを聞いたにもかかわらず、楽員はすっかり指揮者の名前を忘れているというもので、実は世界中のオーケストラではよくあることなのです。

 これに対し「来週になったら、僕が指揮をしていたことなんて忘れてしまうのではないか?」と、僕は本気か冗談かわからない感じで皮肉っぽく返すのが恒例になっています。実際のところ、楽員はリハーサルから本番までずっと同じ指揮者の顔を見つめ続けていても、翌週になったら、すぐに思い出せないことがよくあるのは確かです。まるで昨日の昼食に何を食べたのかすぐ思い出せないこととよく似ているように思います。

 もちろん、楽員側としても、先週の客演指揮者と素晴らしいコンサートしたとしても、今週は今週の指揮者と新しい曲目に集中しなくてはならないわけですから、先週のことなど覚えていられません。この切り替えの早さは、プロフェッショナルならではのルーティンなのでしょうか。とにかくプロの楽員は、今週から始まるリハーサルのことで心は一杯一杯なのです。

 オーケストラの楽員というのは過酷な職業だと、つくづく思います。音楽大学を出たてで右も左もわからない演奏家が、めでたくオーケストラに入団試験に合格したとしても、喜んでいられるのはその日だけです。すぐに、見たことも演奏したこともない楽譜を渡されて、その曲を何度も弾いたこともある、もしかしたら目をつぶっていても弾けるようなベテラン楽員の中に入れられて演奏することから新しい仕事が始まります。

 オーケストラには一般の会社のような研修期間などありませんし、むしろ1年間の試用期間があって、もしオーケストラから評価されなければ、やっと得た仕事を失うような世界です。緊張でガチガチになっている初めてのリハーサルから、ひとつでも音など間違えようものならば、周りのプロ中のプロの楽員からチラリとにらまれますし、もしそれが管楽器などによくある大きなソロだったとしたら、その間違えがオーケストラ全員に聞こえてしまいます。

 しかも、先週の指揮者の名前を忘れる楽員であっても、音楽上の間違いはしっかりと覚えているのです。そして1年後に正式採用をするかどうかの会議の際に、「あのとき音を間違えたよね」と指摘を受けてしまうこともないとはいえません。こういった緊張感は若い奏者だけでなく、ベテランになったらなったで定年まで技術が衰えないように日々練習の毎日です。先週は素晴らしいソロを演奏したベテランであっても、今週のコンサートで音を間違えたら、やはり周りの楽員からチラリと見られてしまうのです。

 まるで毎日が試験のような環境でオーケストラ楽員は仕事をしているのですが、これは本番のコンサートだけでなくリハーサルでも同じで、とにかく目の前の楽譜に必死でかじりついて一日一日をしっかりとこなしていくのです。コンサートでは、男性は燕尾服、女性はドレスを着こなしてエレガントに見える楽員ですが、実際の舞台上ではそんな余裕などなく、胃薬を飲みながら演奏している演奏家も多いのではないかと思います。かくいう指揮者の僕も、リハーサルから胃がキリキリしたりするのです。

 そんな過酷な日々なので、やはり先週の指揮者の名前などは覚えていられないのでしょう。それどころか、今日の予定を把握することで精一杯で、明日の予定すら頭に入ってこない楽員も多いのではないかと思います。

オーケストラと指揮者をつなぐ“インスペクター”

 リハーサル直前のおよそ5~6分前になると、必ず指揮者の楽屋をノックする人がいます。指揮者も誰が来たのかよくわかっていて、「どうぞ、よろしくお願いします」と招き入れるのですが、そこには楽員から選ばれた“インスペクター”、通称“インペク”と呼ばれる役職の楽員が立っています。

 インスペクターの訪問は、初日のリハーサルから本番日の最終リハーサルまで毎日続くのですが、そこで話し合われることは、当日のリハーサルの予定と翌日の簡単な内容のみです。もちろん、指揮者はあらかじめ事務局に全日程のリハーサルプランを伝えてありますし、楽員にも掲示板等で知らせてあるのですが、それでも直前にインスペクターと最終確認するのは大切な作業です。

 ちなみに、楽員がインスペクターとなって指揮者とリハーサルの相談するのは日本のオーケストラだけで、欧米では仮に変更があれば事務局員とちょっと話すくらいです。つまりインスペクターは日本式のスタイルといえますが、オーケストラの内情に精通している楽員ですから、指揮者もざっくばらんに状況を聞くことができるのです。

「この曲は最近やったことありますか?」

「マエストロ、2週間前にやりました」

「それならそれほど練習は必要がないので、早めに面倒な協奏曲に取りかかろうか?」

 こんな相談も気軽にできますし、オーケストラによって個性がありリハーサルのやり方が少しずつ違ったりするので、特に初めて指揮するオーケストラにおいてインスペクターは、指揮者にとってありがたい存在なのです。

 リハーサルの開始時間となれば、インスペクターがオーケストラの前に立って、今日の予定を楽員たちに詳しく話します。明日の予定を軽く触れたりすることもありますが、これはリハーサルの曲順によって、最初から必要がない楽器があったりするからです。とはいえ、ほとんどの楽員は、とにもかくにも今日の練習予定に耳を澄ませており、明日の話を詳しくされてもそれどころではなく、まずは今日のリハーサルに集中しているのです。

 そういう楽員の心境を、自分も楽員の一人であるインスペクターはよく承知しており、明後日のことなど楽員にとっては遠い未来の話であることも重々わかっています。楽員にとっては、今日の詳しい予定と明日の簡単な予定が精一杯なのです。

 ベテランのインスペクターともなれば、指揮者から綿密な4日間の予定を聞かされたところで、「正直、そんな予定通りにいくわけはないだろう」と心の中でつぶやきながら、丁寧な物腰で、「マエストロ、それは今日のリハーサルを終えてから決めませんか?」と言ってくれたりします。僕の経験からすると、こういった場合はインスペクターのご意見に従っておいたほうがよいのです。

(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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