由布院温泉、生活型観光地の圧倒的人気の秘密 住民の愚直な議論と、開発との戦いの60年
当時、中心となって町づくりを進め、現在の由布院のご意見番といえる存在が、元由布院温泉観光協会会長の中谷健太郎氏と溝口薫平氏の2人だ。町づくりの企画者が中谷氏、調整役が溝口氏だったという。中谷氏と溝口氏がそれぞれ経営する「亀の井別荘」「玉の湯」は、「山荘無量塔」とともに、由布院御三家と呼ばれる名旅館でもある。
由布院に残る自然の魅力を発信してきたという中谷氏は、次のように振り返る。
「当時、旅行代理店に売り込みに行った時、『由布院の魅力は何か?』と聞かれて、秋だったので『山のススキがきれいです』と答えたら、『アホか、ススキで飯が食べられるか』と言われたほどです。でも徐々にみなさんに理解されるようになりました」
それでも、開発の波が何度も押し寄せた。1970年、由布院の近くにある景勝地・猪の瀬戸に「ゴルフ場建設計画」、さらに72年、町中に「大型観光施設の計画」、73年には「サファリパークの由布院進出」が持ち上がった。いずれも反対運動を繰り広げて、中止や計画変更に追い込んでいる。
簡単に一致団結できたわけではない。「農民の生活は苦しい。土地を売ってカネが入り、レジャー施設で働ければ助かる」という開発推進派もおり、住民は二手に分かれたという。
こうして地域住民が体を張って、昔ながらの自然を守ってきたのだが、何もかも反対ではなく、場合によっては資本を受け入れることもある。ただし景観を守ることが前提となる。メインストリートである湯の坪街道に立ち並ぶ店にも、看板などに規制がある。
●受け継がれる「由布院らしさ」
「由布院は女性的な町ですから、ほかの町から“お婿さん”として来る企業も大歓迎です。そうした交流で町は発展していくのです。ただし“家訓”があるので、それは守っていただきたい」(中谷氏)
“家訓”の基となったエピソードを2つ紹介したい。1つは大正時代にまとめられた「由布院温泉発展策」。もう1つは71年に中谷氏、溝口氏、山のホテル・夢想園元社長の故志手康二氏による若手旅館主人3人が視察した欧州貧乏旅行の成果だ。
由布院温泉発展策とは、24年に日本で最初の林学博士である本多静六氏が由布院の小学校で講演した記録である。そこには「旅人をねんごろにせよ」(もてなす)、「森林公園の中に町があるようにする」「(ドイツの温泉保養地)バーデンバーデンに学べ」といった提言がされている。
また、欧州視察の際に、ドイツのバーデンバイラーという田舎町の小さなホテルの主人で町会議員でもあったグラテボル氏が語った、次の言葉が町づくりの大きなヒントとなった。
「町に大事なのは『静けさ』と『緑』と『空間』。私たちは、この3つを大切に守ってきた」
本多博士の提言を参考に欧州を訪れ、この言葉に目を開かされた3人を中心に、反対派と議論を続けながら、「昔ながらの自然を守る」町づくりを進めた。その後、志手氏の遺志は、妻で山のホテル・夢想園会長の淑子氏が継いだ。
もう1つ特筆しておきたいのは、そうした既存の体制に異を唱える若手を、頭から抑え込まずに、「しょうがないやっちゃ」と思いながらも見守る“爺さま”たちの存在があったことだ。
欧州視察から43年。かつて青年だった若手旅館主人たちも歳月が流れて、当時の彼らを支援してくれた“爺さま”の年齢に達した。「魅力ある町づくりは、一朝一夕にはできません。強力なリーダーとサポーターが必要です」と溝口氏は語り、次世代を支えながら相談役を務める。
現在の由布院におけるリーダーである由布院温泉観光協会会長は、溝口氏の長女・桑野和泉氏だ。結婚して東京で暮らしていた桑野氏は、夫の慎一郎氏(湯布院病院副院長)を説得して20年以上前に帰郷。子育てをしながら町づくりの活動に加わった。現在「由布院らしさ」を議論する輪には20代の若者も加わって実践し続けている。
由布院の魅力に惹かれて何度も訪れ、中には移住する人もいる。「地者(じもの)も他所者(よそもの)も一体化して、連携してお客さまをもてなしています」と語る中谷氏。これもまた交流の成果だ。
世界遺産となって脚光を浴びた「富岡製糸場」の保全活動も同様だが、「誰かが必死で守らないと」昔ながらの景観は維持できない。地域住民が一緒に議論をし続ける由布院の姿勢が変わらない限り、「懐かしさ」は維持されていくだろう。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト)