新日鉄、住友金属との巨大統合で晴らした公取委への怨念
もし公取委が「鋼矢板」「熱延鋼板」「H形鋼」のような主力製品で集中排除の条件をつけていたら大騒ぎになっていたが、それらは一応、審査はされたものの「問題なし」となっている。
公取委に身を引き裂かれた新日鉄
今回の公取委は「やさしい公取委」だったが、43年前はそうではなかった。
70年3月31日、旧八幡製鉄と旧富士製鉄が合併して新会社・新日本製鐵が誕生したが、当時の公取委は、政財界がこぞって後押しした戦後最大級の合併に待ったをかけた。「独占禁止法に違反する疑いがある」として審査を開始し、69年5月には「合併否認勧告」を出し、東京高裁に対し合併手続の緊急停止命令の申立まで行っている。
それは今日とは違って「吠えない番犬」とも呼ばれていた当時の公取委が、珍しくやる気を見せた出来事だった。
当時問題とされたのは、鉄道用レール、食品缶詰用ブリキ、鋳物銑、鋼矢板の4分野だった。公取委の指摘に対し八幡製鉄と富士製鉄は、
「釜石のレール製造設備を日本鋼管に譲渡して技術提供」
「ブリキ製造の東洋鋼鈑株を日本鋼管、東洋製罐に譲渡」
「八幡の鋳物銑用高炉を神戸製鋼所に譲渡し技術提供」
「日本鋼管と川崎製鉄に鋼矢板の技術を援助」
といった内容の問題解決措置をとることで、同年10月、公取委からようやく合併の承認を得ることができた。
43年前の措置の内容は、今回のそれとはまるで比較にならないぐらい重大かつ深刻なものだった。主力分野の製品シェアや技術を競合メーカーにタダでくれてやる、というものばかりで、当時の八幡製鉄の稲山嘉寛社長(後の経団連会長)や富士製鉄の永野重雄社長(日商会頭)は、身を切られるような思いだっただろう。
公取委への「43年前の怨念」
そのため、新日鉄には公取委への「43年前の怨念」がある。
今回、ごく軽い条件で公取委にスピード承認させることができ、その怨みを晴らした形になる。
43年もの歳月が流れると、当時の大卒の新入社員は65歳以上で、ほとんどが定年退職している。現在の新日鉄の宗岡正二社長はまだ入社していないが、三村明夫会長は富士製鉄に入社して当時7年目の中堅社員だった。10月の合併を前に退任するので、今頃、永野氏をはじめ先輩諸兄を苦しめた憎き公取委の首を討ち取って、それを墓前に供えて花道を退く気分かもしれない。奇しくも昨年、公取委が異例の早さで合併承認を出した日は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った12月14日だった。
新会社誕生前から始まっていた新日鉄vs.公取委のバトル