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吉田潮「だからテレビはやめられない」(10月17日)

カンヌ絶賛『そして父になる』より“響く”フジドラマが描く、すべて女のせいにされた時代

文=吉田潮
カンヌ絶賛『そして父になる』より“響く”フジドラマが描く、すべて女のせいにされた時代の画像1映画『そして父になる』(配給:ギャガ)公式サイトより

 主要なテレビ番組はほぼすべて視聴し、「週刊新潮」などに連載を持つライター・イラストレーターの吉田潮氏が、忙しいビジネスパーソンのために、観るべきテレビ番組とその“楽しみ方”をお伝えします。

 是枝裕和監督の最新映画『そして父になる』(配給:ギャガ)が静かに話題となっている。赤ちゃん取り違え事件を題材にした物語で、ちょっぴり重たいが、極力ドライに、そして粘着質に描かず、確実にマジョリティに訴えられるようなつくり方で心に響く作品だった。が、そんな感想をより複雑にするテレビドラマをうっかり観てしまった。10月11日に放送された『ねじれた絆~赤ちゃん取り違え事件 42年の真実~』(フジテレビ系)である。

 題材は同じだが、私の脳天により大きく響いたのはドラマのほうだった。赤ちゃん取り違えは完全に病院側の不手際であり、取り違えられた側にははなはだ迷惑な話である。特に、昭和30~40年代という時代背景を考えると、取り違えられた女性たちがどれだけ辛酸を舐めたことか。この部分をよりきっちりウエットに描いたのは、間違いなくドラマだった。事実に基づいた実録ドラマなので、映画と比べること自体がナンセンスだし、比べられても困るだろう。でも、「血のつながりか、過ごした時間か」を深く考える意味では、ドラマのほうがよりシビアな判断材料を与えてくれたような気がしている(女にとっては)。

 比較的裕福で教育熱心な家庭の夫婦を演じたのは、お笑いコンビ・ガレッジセールのゴリと板谷由夏。子だくさんで、経済的にあまり余裕のない家庭の夫婦は、光石研と西田尚美が演じた。

 取り違えが発覚したとき、板谷が夫から浴びせられた言葉は、

「お前の子かもしれない。俺の子じゃないだけで。浮気したりすれば……」

だった。それ、今、言うか……。無神経にも程があるのだけれど、昭和なんてそんな時代。平成の現在だったら、嫁に寝首を掻かれてもおかしくない発言だ。 

 一方、西田は姑(光石の母)から思いっきりドヤされる。

「お前のせいだ! 一族の恥だ! お前がちゃんとしてれば、こんなことにならなかったんだ。子どもを間違って育てるなんて、恥さらしめ!」

 もうね、観ていて思わず「ババア、地獄へ堕ちろ!」と叫んだわ。ドラマではあるから、多少過激な演出やセリフになっているのかもしれない。でも、当時は「すべて女のせいにされたんだろうな」と口の中が苦くなった。子供ができないのも、子供が勉強できないのも、子供を取り違えられたのも、すべてみーんな女のせい。そういう時代があったんだと眉間にしわを寄せた2時間だった。当事者の稲福スミ子さんと島袋公子さんの苦悩は、それこそたった2時間で簡単に語り尽くせるようなものではなかっただろう。

 もちろん、演技に魅了された部分も大いにある。板谷の醸し出す「良妻賢母タイプ」、西田から漏れ出る「意思薄弱タイプ」は、どちらにも心奪われる要素があった。経済的事情、教育への考え方、家庭環境が異なるものの、どちらも母であることに変わりはない。「板谷の強さ」と「西田の脆さ」は対比的に描かれていたが、「娘を育てる母親は、とにかくつらくて苦しい」ことが伝わってきたし。娘役の未来穂香と草刈麻有も、心の葛藤をうまく表現していた。題材を深く考えさせるには、やはり役者の力量が必要なんだと改めて思った。

 ドラマや映画はつくり手のバイアスがかかり、事実に味付けされることもある。それでも意義はある。要は視聴者や観客が読み取る力と感じる力を備えておけばいいわけで。タイミングよく、映画もドラマも観られてよかった。個人的には、血よりも時間を選びたい。
(文=吉田潮/ライター・イラストレーター)

 

吉田潮

吉田潮

ライター・イラストレーター。法政大学卒業後、編集プロダクション勤務を経て、2001年よりフリーランスに。「週刊新潮」(新潮社)で「TVふうーん録」を連載中。東京新聞でコラム「風向計」執筆。著書に『幸せな離婚』(生活文化出版)、『TV大人の視聴』(講談社)などがある。

Twitter:@yoshidaushio

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