嫌悪感から人の性癖を批判するのは「性癖差別」ではないか?人を深く傷つけないか?
性指向の自由は認知される一方で、残存する性癖差別
性癖差別は、性指向が認められるにつれてより鮮明となっている。時代をさかのぼると同性愛や、肉体とこころの性別が一致しない「トランスジェンダー」も変態扱いを受けた歴史がある。2015年にも、望まぬかたちで性指向を暴露された一橋大生の自殺があった。
しかしその一方で、渋谷区を筆頭に同性パートナーシップ証明書を交付する自治体も現れ、性的マイノリティの略称としてLGBTが広まるなど、牛歩とはいえ変化の兆しはある。ところが性暴力や性的マイノリティの自由化を推進する方であっても、「性癖は別」と一線を画す傾向にある。また、「性癖と違い、LGBTのような性指向は変えられない。だから性指向は差別されてはならない」という論理で差別撤廃を語る方もいる。だが、性癖は変えられるものだろうか?
受け手の安全を無視する性癖や性指向があれば、規制されてしかるべきだろう。だが誰も害されないならば、人は自由に生きていいはずだ。そのラベルが「性指向」あるいは「性癖」のどちらでも、その事実は揺るがない。
もし「大多数の人間はあなたの性癖に嫌悪感を抱くから、規制されてしかるべきだ」という論理を通すのであれば、その言葉はいつか自分の持つマイノリティな側面に対して、深く突き刺さることだろう。
(トイアンナ/ライター、性暴力防止団体「サバイバーズ・リソース」理事)