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また11年(明治44年)に大塚—飛鳥山、13年に飛鳥山−三ノ輪に王子電車、現在の都営荒川線が開通した。この電車は、当初は飛鳥山での花見、王子稲荷への参拝客、名主の滝への遊山客が利用する「行楽電車」「花見電車」だった。
さらに16年(大正5年)には大塚天祖神社前に映画館「オヤマ館」ができた。これが豊島区の映画館第1号である。また18年に「豊島亭」、20年に「鈴本亭」「金松亭」という寄席ができ、大塚は娯楽の街、繁華街として人気を集めていたのである。
このように大塚、巣鴨は豊島区の商業・娯楽の中心になっていった。そのため料亭、置屋、待合からなる三業地指定の要望が地元で高まり、22年から警察が指定する現在の地域に移転し、芸妓屋のみの営業許可がおりた。この段階で芸者が100人近くいたという。
23年には関東大震災があり、打撃を受けたが、即座に活気を取り戻した。そして24年、芸者200人以上、料理店85軒、待合18軒からなる三業地となったのである(当時の地名は平松。現在の南大塚1丁目付近の2万4000平方メートルの土地)。
暗渠ではなかった谷端川沿いに料亭が並び、川には板の橋も架かっていたので、風情があったという。川はどぶ川だったが、夜にはどぶの汚さも見えなくなり、明かりが川に映るときれいで、箱根のようだった。だから、大塚は「新箱根」と呼ばれたと、当時を知るある漫画家が回想している。今から見ると、本当だろうかと疑いたくなるほどだ。
こうして32年(昭和7年)には、芸者数260名、置屋68軒、料理屋22軒、待合61軒、と繁栄を極めた。
三業地の一角
しかし大塚の街は、戦争で破壊され、戦後は副都心として池袋が発展したことにより、区の中心としての立場を池袋に譲った。あくまで山手線と都電の乗り換え駅くらいの認知度しかなくなってしまったのだ。
それでも、近くに大学が多かったせいか、70年代の地図を見ても、天祖神社付近にはまだ映画館などがあったようだ。
駅の南(左)に松竹、鈴本キネマという文字が見える(高山凡編『東京娯楽地図』、寿海出版、1974年)
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