英会話重視の英語教育、子どもの英語力が極端に低下…無口で高学力の学生が大学入試不合格
このように言うと、それらはどれも社会に出てから役に立つ能力ではないじゃないか、英会話はグローバル化の時代のビジネスに役に立つ、などと言う人が出てくる。
イラストも、ギターも、天体観測も、マウンテンバイクも、たしかにビジネスに活かせるとは言えないかもしれない。
それならば、パンを上手に焼く能力、おいしい料理をつくる能力、利き酒の能力、おいしいコーヒーをいれる能力などを入試の成績に組み込んだらどうだろう。これらの能力は、社会に出てからビジネスにつながっていく可能性がある。
さらに、人を説得する能力、第一印象を良くする能力、誰とでも親しく雑談する能力、じっくり傾聴して相手のホンネを引き出す能力などは、どんな仕事に就いても役に立つビジネスの基礎力と言えるものだから、入試の成績に組み込んでもいいだろう。
これらは、どれだけの人が使うかわからない英会話よりも、よほどビジネスで多くの人が活かせる実用的な能力であるはずだ。
英会話能力は学力だという勘違い
それでも抵抗する人がいる。
たしかに説得力や印象管理能力、雑談力、傾聴力などは、ビジネスでも重要で、意味ある能力かもしれないが、そんな実用的能力は学力とは言えないから、入試の成績に組み込むにはふさわしくないと。
それでは、なぜ英会話能力は入試の成績に組み込んでもいいのか。ただおしゃべりができる能力にすぎないのに。ここで最初の問題提起に戻ってしまう。何か勘違いしているのではないだろうか。
多くの人が漠然とながらも英会話能力を学力と勘違いしやすいのは、かつては、つまり自分たちが子どもの頃は、「英語ができる子」=「勉強ができる子」だったからにほかならない。
私の学校時代もそうだった。能力には個性があるから、数学がメチャクチャ得意なのに英語はまったくできないという子もいたものの、概して学業成績の良い子は英語の成績も良かった。
だが、それは英語の学習内容が訳読中心であって会話中心ではなかったからだ。訳読は、日本語能力と英語能力という2つの言語能力の鍛錬であるため、英語ができる子は国語もできたのである。
かつての英語の授業では、英文学を読んだり、文化評論を読んだりして、その理解や訳出の過程で英語や日本語の知識を総動員し、国語で鍛えた読解力を必死に用いることで、言語能力が鍛えられた。