1994年12月3日、ソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント/以下、ソニー)が満を持して発売した家庭用ゲーム機「PlayStation」(以下、プレステ)。そう、2019年はプレステ25周年イヤーなのである。
家庭用ゲーム機といえば、それまでは長らく「ファミコン」「スーパーファミコン」を擁した任天堂の天下が続いていたが、その歴史を大きく揺るがしたのがプレステだったのだ。しかし、現在までに「PlayStation2」「PlayStation3」「PlayStation4」と後継機を発売し、プレステシリーズ世界累計5億台突破(携帯ゲーム機含む)という記録を打ち立てているが、その歴史は必ずしも順風満帆なわけではなかった。
そこで今回は、『教養としてのゲーム史』(ちくま新書)など、多数のゲーム関連著書を持つライターの多根清史氏に、プレステシリーズの山あり谷ありの歴史を解説していただこう。
プレステの勝因は“ゲームソフトの素人”ときちんと自覚していたこと
「プレステが発売された94年12月は、任天堂のスーパーファミコン時代の後期で、任天堂の次世代機となるNINTENDO64発売の1年半ほど前の時期。当時、任天堂が一時不調だったなかで、ゲームプラットフォームの主流を国産ハードが死守した働きは大きいものでした」(多根氏)
ソニーが家庭用ゲーム機を出すということに、「ゲームメーカーではない企業が参入して大丈夫か?」という世間の目もあったことだろう。
「確かにソニーは“ハードウェアのプロ、ゲームソフトの素人”という印象はありました。ただ、ソニーにはその自覚がきちんとあったことがよかったのでしょう。自社タイトルでは会社が制作環境を整え、創作はクリエイターに任せるという姿勢を取りつつ、一方ではサードパーティが参入しやすいよう、開発支援やソフト生産のコストダウンを図るなどの下地を整えていました。その結果、プレステには多くの“ゲームづくりの才能”が集まったのです。そういった地道な努力があり、『ファイナルファンタジー』シリーズを擁するスクウェア(当時)や、『ドラゴンクエスト』シリーズを擁するエニックス(当時)が、任天堂の家庭用ゲーム機からソニーに鞍替えしたのです」(同)