アートにおいて妥協しない
さまざまな障害を柔軟にかわして運営されている同芸術祭だが、本来の軸であるアートについては、一切妥協していない。開催場所こそ地方だが、ジェームズ・タレルやクリスチャン・ボルタンスキーなど世界的トップアーティストの作品がずらりと並んでいる。
地元のアーティスト起用を推進するような「圧力」がかかっても、公募によって公正な評価を得ることができなければ、採用していない。妥協せずに「本物」を起用しているため、同芸術祭での作品をきっかけに世界的スターに成長したアーティストも多い。
新潟という寒冷地で開催しているのも、地方創生のために妥協しているのではなく、現代アートとしての内的な必然性がある。既存のアートは、美術館やギャラリーの白い壁に四角く囲まれた部屋「ホワイトキューブ」に掛けられることを前提に、可搬で平面な絵画00が高額で売買されてきた。
現代アートは、そうした流れに批判的な活動として、価値中立的なホワイトキューブからコンテキストに満ちた日常空間に、無機質な都市から自然あふれる田園に出るものとして発展した。
現代アートは、一回性のパフォーマンスアート、大地と一体となったランド・アート、人と人との関係性にこだわるリレーショナル・アートなど、売買しにくいかたちで展開された。越後妻有の里山や古民家、廃校の校舎は、そういった作品を提示するのに最も適した舞台でもあったのだ。
なるほど、こうして全体を見渡してみると、個々の作品だけでなく、この芸術祭全体が760平方キロメートルのランド・アートであり、約7万人の住民によるパフォーマンスアートであり、約50万人の見学者が参加するリレーショナル・アートに思えてくる。
それだけ壮大なアートならば、下世話なビジネスの視点や、行政上の地方創生政策、小難しい芸術論から離れ、五感をフルに使って素直にアート作品を体感する。それが、この芸術祭の楽しみ方なのかもしれない。
(文=小林敬幸/『ビジネスの先が読めない時代に 自分の頭で判断する技術』著者)