「捕鯨」の是非、日本人と欧米人の議論が“延々とかみ合わない”理由…根本的な論点のズレ
「与ひょうは、女房つうとの約束を破り、ふすまを開けて機を織っている姿をこっそり見てしまいます。そこには、自らの毛を抜いては生地に織り込んでいる一羽の鶴の姿。正体を見られてしまったつうは、引き留める与ひょうのもとを去り、悲しく鳴きながら空へ帰っていくのでした」
これは、「鶴女房(鶴の恩返し)」を題材とした戯曲『夕鶴』(木下順二作)の最後の場面です。しかし、クラシック音楽の生まれたヨーロッパでは、このような話はあり得ないのです。
「お姫様が、大切にしていた手まりを森の泉に落としていまいました。そこに現れたカエルが『僕と一緒のお皿で食事をして、同じベッドで寝てくれるなら、取ってきてあげるよ』と言います。お姫様がそれを受け入れて、カエルが手まりを取ってくれたにもかかわらず、お姫様は『カエルと寝るなんて気持ち悪い』と約束を守りません。王様の命令で、しぶしぶ同じ寝室に入ることになるのですが、やはり気持ち悪くなり、お姫様はカエルをつかんで壁に叩きつけます。しょんぼりと帰ろうとするカエルを見てかわいそうになったお姫様は、カエルを抱き上げてキスしたところ、魔法が解け、カエルは美しい王子に変わり、その後、2人は結婚し幸せに暮らしました」
これは、グリム童話『カエルの王様』の物語です。おわかりになったと思いますが、動物の姿に変えられていたとしても、やはり人間同士が結婚するのが、ヨーロッパのお話です。それに引き換え、日本のお話では、人間に姿を変えていても動物と結婚しています。これは、東アジア全体に見られる考え方だそうです。
そして21世紀の今もなお、古い風習が残っている同じアジアのインドの地方部では、悪霊を払うために犬と結婚させられた9歳の少女や、呪いを解くために犬と結婚した18歳の青年がいるとして、報道されています。ちなみに、インド人の約半分は菜食主義といわれています。彼らは「動物を殺すことは罪である」と考えているそうです。これは、葬式や法事の際に生臭物を忌む日本人にとっては、よくわかる感覚だと思います。
ヨーロッパは全域的にキリスト教が広まっています。キリスト教では、人間は神によってつくられたなかで特別な存在であり、その人間が生きていくために動植物をつくられたという考えなので、動物を殺して食べてもよいことになっています。そのため、悪い魔法使いによって人間が動物や化け物に変えられていたとしても、実体は人間なので結婚できますが、東アジアのように“人間に化けている動物”とは結婚できないのです。