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コロナにかき消された10回目の「3.11」…「対岸の火事」から脱却できないメディアと国民

文=いとう・たいち
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東日本大震災で被災した岩手県大槌町(2011年5月5日)

 10回目の「3.11」を迎えた。

 大きな節目だ。メディアは大々的に報道するだろう。死者を悼み、遺族に心を砕く。

 災害報道の目的は惨劇を繰り返させないことに尽きる。1万8000人を超す死者・行方不明者を生んだ爪痕を記録し、教訓を伝え、「次」への備えを促す。「日本は地震大国。いつどこで巨大地震が起きてもおかしくない。被災地から遠く、被害を免れたとしても『わがごと』として受け止めよう」と。

 だが。

 10年という経年は残酷で、世間の関心は被災地を除けば驚くほど薄まった。報道に触れて記憶を呼び戻されることがあったとしても、一過性に終わり、あくる日からそれぞれの日常に戻る。

 年月の積み重ねがそうさせる。風化は間違いなく進んだ。「10年ひと昔」とはよく言ったものだ。物事はいったん人間の脳みそに入ったら、その瞬間から風化は始まる。原爆。阪神大震災。オウム事件。過去のどんな惨事もそうだった。時が進めば記憶の輪郭はおぼろげになる。

 日々、新しい情報が脳みそに刻まれる。どんどん更新され、古い情報はみるみる隅に追いやられる。しかも、新型コロナがあった。上書き情報としては威力抜群で、人々の関心を独り占めにした。「ビフォーコロナ」の記憶は一斉にかき消された感がある。

被災者が冷たい海水に浸かっているとき、都会の関心事は「帰宅難民」だった

「震災番組はこのところ数字が取れなくなった」

 地元テレビ局の関係者がこぼしていた。被災地であっても月日を重ねるごとに視聴率が低迷しているという。

 災害報道は記録性が優先され、基本的に硬く、地味だ。エンターテイメント性に欠け、お茶の間を引きつけにくい。遺族密着報道も「お涙ちょうだい」の域を超えないものが少なくなく、かえってげんなり感を招く。

 視聴率に象徴されるようにメディアは世間の関心と無縁ではいられない。興味が希薄になれば報道量は必然的に減る。

 メディアに身を置く者として自戒を込めて言うが、報道の力はそうたいしたことがない。

 「3.11」の5年後、熊本地震が起き、50人が死んだ。「3.11」でこれでもかと報道しても熊本で住宅の耐震化が進んだとか、地震保険の加入率が上がったとかという話は聞かなかった。結局「ひとごと」の発想から抜け出させる説得力を持たず、命を救えなかった。

 人間は自分が痛い目に合わないと目を覚まさない。

 被災地から離れた所に住み、現地に血縁者でもいない限り、「1000年に一度」の巨大津波もテレビ画面の向こうの出来事にすぎない。被災者が引き切らない冷たい海水に浸かり、がれきをかき分けて泣きながら家族を探している時、遠方の都会の関心事は「帰宅難民」であり、タワーマンションの液状化現象だった。

 メディアがいくら「わがことと受け止めよう」と呼びかけても都会は臨海埋め立て開発に余念がない。「直下型地震が起きたら一面火の海になる」と警告されている下町の防火対策も進まない。

 災害報道に携わる身として、風化が想像を超えて深刻化している現実に打ちのめされる。「対岸の火事」の思考からの脱却を促せない無力を痛感する。

(文=いとう・たいち)

●いとう・たいち

地方紙記者、全国紙記者を経て2021年3月からフリー。災害、事件、政治など多様なジャンルを、人物に焦点をあてた切り口で伝える。

 

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