六代目山口組分裂後、同組織へと対抗すべき戦術においての示威的行為や、傘下勢力における伝統ある組織名称の復活など、常に先手を取り続けていた神戸山口組。そうしたつばぜり合いが膠着状態になってからも、六代目山口組に対して神戸山口組は一歩足りとも譲らなかった。その勢いにかげりが出たとするならば、去年4月、織田絆誠代表率いる任侠山口組の勢力が離脱したときだろう。
特に結成後に開かれた任侠山口組の記者会見には強烈なインパクトがあり、マスコミもこれを大きく取り上げた。そして、神戸山口組執行部を猛烈に批判した2度目の記者会見。その報復のごとく起きてしまった織田代表襲撃事件。
この事件では、織田代表の警護役を務めた組員が神戸山口組元組員に銃殺されたこともあって、警察当局は神戸山口組にターゲットを絞るかのように、同団体の本部事務所の役割を果たしていた俠友会本部を閉鎖させるなど、厳しい締め付けを行った。
さらについ先日には、神戸山口組中核団体である四代目山健組ナンバー3にあたる統括委員長、植野雄仁・二代目兼一会会長が六代目山口組極心連合会へ移籍するという“事件”も起こった。
こうしたなかで、「神戸山口組が揺れている」と業界関係者の間で話題になり始めたのは事実だ。だが、これだけのことがあっても、神戸山口組の足元は強固で、当局の締め付けに対しても冷静に対応していると評価する向きのほうがやはり強いようだ。
そんな組織の支柱として、決して忘れてはならない人物が存在する。それが、神戸山口組若頭である俠友会・寺岡修会長だ。
寺岡会長は山口組分裂前の六代目山口組発足当初から、執行部の一端を担う若頭補佐という重職に就き、体調を崩して舎弟に直るまで、六代目発展に尽力してきた親分である。業界でも「筋の通った極道」として定評があり、舎弟に直ってからも「淡路の叔父貴」と呼ばれ、直参組長らから慕われる存在であった。その重厚で独特な雰囲気は、筆者自身も肌で感じたことがある。
「我々は六代目山口組に再び戻ることはない」
これも山口組分裂前のことである。筆者の親分が社会不在を余儀なくされていたため、筆者が阪神ブロック会議に代理出席した時だ。阪神ブロック長であった四代目山健組・井上邦雄組長(現・神戸山口組組長)ら錚々たる親分衆が居並ぶなかで、筆者は席へと着く前に「代理です。よろしくお願いします」と一礼し、末席へと腰を下ろした。
ちょうどその頃、五代目山口組若頭・宅見勝宅見組組長射殺事件の容疑者として指名手配されていた元中野会幹部が、16年にわたる逃亡生活の末に逮捕されたばかりで、議題でも「あのような事件は二度とあってはならないこと」として、取り上げられていた。
その際にも、淡路の叔父貴と呼ばれていた会長には、「叔父貴はどう思われますか?」と議題の度に意見を求められていた。それに対して寺岡会長は決して偉そうにすることなく、手短かに、かつ明確に話をしていたのを覚えている。たったそれだけでも、筆者には寺岡会長が親分衆から慕われているということを窺い知ることができたのである。
その寺岡会長が神戸山口組の若頭に就任すると、その後に任侠山口組が結成されて、組織内外に衝撃が走ったときも微動だにすることなく、こう宣言したと言われている。
「我々は任侠山口組とは立ち上がった理由が違う。六代目山口組に再び戻ることはない」
それは、山口組が3つに分かれるという前代未聞の動乱のなかで、神戸山口組組員に向けた言明だった。この言葉を受け、迷いを捨てた組員らもいたのではないだろうか。
神戸山口組結成に向けては、さまざまなことが想定されていたはずである。盃を割るということは、ヤクザ社会においてどういう意味をもたらすのか、ほかの誰よりも立ち上がった親分衆らが一番理解していたはず。それを承知の上で、神戸山口組は立ち上がってみせたのだ。その中心に井上組長とともに常にいたのが、寺岡会長である。
ほんの数年前、ある用事で、寺岡会長がすでに引退していた筆者の親分を訪ねてきたことがあった。その際にも、寺岡会長は終始、筆者の親分を親愛の情を込めて「兄弟」と呼び続けたのである。人柄というものは、こうしたところに表れるのではないだろうか。
六代目山口組には絶大な影響力を持つ髙山清司若頭が存在する。だが、神戸山口組にも寺岡若頭という親分がおり、この分裂騒動でどのようなことがあったとしても、寺岡若頭の心だけは揺れ動くことがないだろう。
(文=沖田臥竜/作家)