兵庫の名門私立「神戸女学院中学部・高等学部」の元教員2人が8月7日、神戸女学院に未払い残業代など約2445万円の支払いを求め、神戸地裁尼崎支部に提訴した。
給特法(「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」)が適用される公立校とは異なり、私立校は一般企業と同じく労働基準法の対象となる。そのため公立と私立では本来、労働時間管理の考え方が大きく異なるはずで、私立校は労働基準法にのっとって労働時間を適正に管理し、残業代や深夜手当を払わなければならないのである。
しかし、問題となっている神戸女学院では、なぜか公立校の教員と同じように月給の数%相当の「教職調整額」が支給されていただけで、事実上“残業させ放題”となっていたそうだ。
関西で有数の名門私立校である神戸女学院で、なぜそのような問題が起こってしまったのか。そして、このように残業代などの割増賃金が適正に支払われていないという問題は、ほかの私立校でもありえるのだろうか。名古屋大学大学院教育発達科学研究科の内田良教授に話を聞いた。
「教職調整額」という名目で違法労働が横行か
まず、今回の元教員2人が神戸女学院相手に起こした訴訟の争点はどこになるのか、内田氏に解説してもらった。
「最大の争点は、“私立校で労働時間外賃金として支払われている教職調整額は違法か否か”でしょう。1971年、公立校は従来の月給に4%上乗せする教職調整額が支払われるということが、給特法で決まりました。教職調整額は、実質的には固定残業代のような働きをもっていて、つまり公立校では教職調整額が導入されたことで、ごく一部の業務を除き、建前として残業という概念がなくなってしまったのです。部活動指導だけは怪我の対応や、教員が指導していたという身分保障をしないといけないので、土日の指導に限って、4時間で数千円程度の『部活動手当』が支給されていますが、これも、最低賃金を下回る金額です。。
一方、私立校は労働基準法が適用されるため、本来であれば一般企業と同じように残業代、すなわち時給の少なくとも1.25倍にあたる割増賃金をきちんと支払わなければ違法状態になります。ですが私立校も従来の月給に4%程度上乗せする教職調整額を支給している学校は多く、教員はどんなに残業を強いられても労働時間外賃金が教職調整額として支払われているだけというのが実態。私立校は教職調整額や部活動手当といった名目を用いて、見事なまでに公立校の真似事をしてきたという背景があります。要するに今回の残業代未払い問題は、神戸女学院が特殊なケースというわけではなく、私立校全体に言えることでもあるのです」(内田氏)
なぜ私立校は公立校に倣って教職調整額を支給しているのだろうか。
「教諭を残業させ放題にできるため、私立校の経営側には人件費のコストカットになるというメリットがあるわけですが、そもそも今までは公立校の真似をしていても、あまり問題視されていなかったのです。しかし2019年の働き方改革関連法案が施行され、また、ここ数年の間で急速に教員の長時間労働の問題が浮き彫りになってきたことで、私立校界隈でもようやく、“教員の働く体制をきちんと整えていきましょう”という法令順守の動きが見られるようになってきたのです。
2022年11月には、長崎県内の私立校で運動部の顧問を務める教員が、部活指導に対する未払いの時間外賃金を求めた訴訟で和解が成立するという、非常に画期的な判決がありました。その裁判の事例が、私立校教員の労働時間外賃金問題の改善への第一歩となっており、今回の神戸女学院の訴訟はどのような判決が出るのか、大きな注目を集めているのです」(同)
なぜ適正な労働時間外賃金が払われていないのか
私立校は、本来なら一般企業と同じく労働基準法に準じなければいけない労働時間外賃金を、学校という“顔”を都合よく使って、公立校と同じように教職調整額を導入して適正額を支払っていなかったというわけだ。
「私立校は給特法の真似事をすることにより、公立校と同じく残業の概念をなくしました。それで教員の勤務時間管理をする必要がなくなり、残業代などの人件費のコストを意識しなくなっていたことが、非常に大きな問題点なわけです。ただ、その問題点を見えづらくさせていたのが、“お金や時間に関係なく生徒に尽くしてこそ教員の鑑だ”といった教職につきまとうメンタリティーが存在していたことです。単に法制度の問題だけでなく、そこに教員文化が重なっていることは間違いないでしょう。
ひと昔前は、働いた分のお金をしっかり請求したり、定時ですぐに帰宅したりする教諭を“サラリーマン教師”と揶揄することも多々ありました。現在は社会全体でそういった働き方が推奨されるようになってきていますが、かつてはそういった教諭を見下す空気感があったのは事実。そして教育現場ではいまだにそのような古い価値観を持つ人もおり、今でも払拭しきれているとはいいがたいのです」(同)
2018年1月に発表された「第3回 私学教員の勤務時間管理に関するアンケート調査報告書」(公益社団法人私学経営研究会調べ)によると、労働基準監督署から是正勧告や指導を受けた私立高校が全国で約2割に上っていたという。問題の神戸女学院も、労基署から時間外労働に関する是正勧告を2度受けていたそうだが、是正勧告や指導を受けても改善が進まなかった要因はどこにあるのだろうか。
「労基署から労働時間をしっかりと管理して労働時間外手当を支払うよう指導されても、私立校は長年にわたり時間管理の文化がなく、それを根付かせることは一朝一夕ではできないのでしょう。また、労働時間の管理をきちんとする体制を整えたところで、これまでは教諭にタダ働きの残業をさせることで学校経営をしていたわけで、時間外労働費用を捻出するのが厳しいという私立校は多いはず。きちんと残業代を支払うとなると年間で何千万円とかかるでしょうが、その財源がないのです。
それ以前から少子化の影響で生徒獲得に苦戦している私立校は少なくなく、経営難に陥って潰れてしまう学校もあるほどですので、さらに教員の残業代もきっちり支払うとなると、閉校ラッシュが起こっても不思議ではありません。“子どものためにがんばって働くんだ”という教員の善意につけ込んだ教育文化が当たり前になってしまっており、利益追求のために学校側が労働時間を把握しようとしてこなかったツケが、今になって出てきたということでしょう」(同)
私立校で時間外労働手当を巡った訴訟が増加する可能性
今後、神戸女学院と同じような待遇を受けていた教員たちが訴訟を起こしていく流れや、それに伴って学校側が教員への労働環境を改善し始めるといった流れは起こるだろうか。
「大多数の私立校が神戸女学院に近い状態にあるので、これからも不満を抱いている教員・元教員が訴訟を起こす動きは増えていくだろうと推測しています。2018年9月に埼玉県内の公立小学校の教諭が時間外勤務の賃金などの支払いを県に求めた裁判では、最高裁判所は給特法を理由に上告を退け、2023年3月に教諭の敗訴が確定してしまいました。この判決のように公立校では裁判で敗訴した判例が蓄積されてしまっているため、訴訟を起こしても勝訴するのは難しい状況にあります。
しかし私立校の場合、まだまだ判例が少ないため、訴えを起こした教諭側からすれば十分に裁判で戦える状況にあるといえるでしょう。私立校の教職調整額により労働時間外賃金を支払っていないという現状は、明らかに違法状態であるので、今後は時間外労働手当を巡っての訴訟の動きは加速すると思います。
一方で、ごく一部の予算が潤沢な私立校のケースではありますが、残業代を支払い始めているところもあります。さらに土日に勤務をした場合は、平日に振替休暇を取得できるようにする制度を導入する学校もあり、私立校自体が自ら改革をしていく動きも出てきてはいます」(同)
人材(教員)を残業させ放題というベースがあっても経営難に直面している私立校は、残業代を支払おうにも“ない袖は振れぬ”状態となりそうだ。となれば最悪の場合、閉校という選択を選ばざるを得なくなるかもしれない。全てが丸く収まる解決策がなかなか見えない根深い問題である。
(取材・文=逢ヶ瀬十吾/A4studio、協力=内田良/名古屋大学大学院教育発達科学研究科教授)