壮大な経営者あるある 終わりなき運との苦闘、功労者を切る決断、成功を確信直後の撃沈
『HARD THINGS』(日経BP社/ベン・ホロウィッツ著)
「2015年上半期のビジネス本最高傑作」と下馬評の高い『HARD THINGS』はお奨めです。英語のわかる人は原典をKindleで買えばよいと思いますが、翻訳もかなりよくできていて、臨場感に興奮しながら読み通せるのではないかと思います。
同書は、すべての経営者に共通する悩みを余すところなく書き綴っています。それも、単純な失敗談、とってつけたような「昔は苦しかった」という類の独善的な内容ではなく、経営者であれば必ず経験するであろう資金繰りと人間関係の問題に焦点が当たっております。いうなれば、壮大な「経営者あるある」です。読み進めても、どのページを読んでも己の辛かった記憶を思い返して涙を浮かべてしまいそうで、読者に猛烈な自省と嵐の類の共感を求めてやみません。
日本的な経営のマインドでいうと、昨今の「上場ゴール」にも代表されるようなネタ企業も含めて、会社は本来ゴーイングコンサーンであり、永久機関であるべきという組織観で経営されがちですが、経験豊富なこの著者からすると、当然のごとくリストラは事業が成功する前に行うべきものであります。日本の凡百の企業経営者とは経験から掴み取った結論が異なります。経営の基本以外の何物でもないのですが、一般の勤め人はおそらくはピンとこないでしょう。うまくいったと経営者も幹部も組織も従業員もマスコミも客も思い込んだ後にくる、急激な落ち込みというものが。
結局のところ、組織というのは架空の、つまり人が理解をするためにわかりやすくするための概念にすぎないのであって、本質は常に、絶え間なく発生する現実との苦闘であり、人の感情同士のぶつかり合いであって、それに立ち向かう経営者の苦悩なのであります。赤字も辛いでしょうが、それ以上にすべてがめぐり合わせや運で決まっていく世界で、微々たるところでも弛まず物事に取り組んでいけるかの心の問題なのでしょう。
ただ、こういう本が出てくるということは、まあ前回のネットバブルの経験を強く意識しているからかもしれませんが、そろそろ今の株高の宴も終わるだろうというふうには思います。冷や水かけてる感はハンパない。逆にいえば、同書は今のハイパー株高の総括ともいえるぐらいに決定的な内容ですし、そのような景気の浮き沈みに左右されない経営者のマインドとはなんであるかを知りたい人にとっては、読んで損はない最良の書であることはいうまでもないのです。
日々苦悩する経営者の姿
そして、同書に共感できない人は、経営をしていないか、今まで悩まなくてもいいぐらいのすばらしい運勢に恵まれたか、人間的に偏っているかです。人の上に立つ者として、状況を最善にするために功労者を切る決断をすることの辛さは、事業が大きくなったり浮き沈みを経験すると絶対に訪れます。この著者の場合は最終的な売却ですべての帳尻が合ったので、幸運にも彼は貴重な体験を文字にして読者に伝えることができました。しかし、その影には大多数の日々苦悩する経営者の姿が見え隠れする――そんな本であります。大変ですよこれは。なぜか解説として小澤隆生さんの文章も挿入されていますが、その辺はまあお好みで。
数少ない難点は「そうはいっても、お前もそれなりに悪いことしただろ」という話があまり盛り込まれていないところです。やむにやまれず上手く立ち回った結果、望まない退職を強いられたり、大口クライアントからの契約変更の余波を食らって玉突き的にディールを解消されて損失を計上したりした会社のその後については、当然ながらほとんど触れられてはいません。
どうしても「俺はこんなに苦労しているんだ」という内容が前に出てきてしまうことと、現在の市場の環境やキャピタルの原理に沿って忠実に経営することでゴールデンパラシュート気味な回収をした著者だけに、現在の狂ったベンチャー界隈についての客観的な考察はあまりありませんが、それはまあしょうがないのかなと。
そういうわけで、10年後ぐらいに「2015年はこうだったなあ」と思い返すのにふさわしい本じゃないでしょうか。過去の類書としては、『ビットバレーの鼓動』(日経BPコンサルティング/荒井久著)とか『ネット起業! あのバカにやらせてみよう』 (文藝春秋/岡本呻也著)といったところでしょうか。自炊したデータをさらさら読み返してみると懐かしすぎて鼻水が出たという、清清しく晴れた心地よいゴールデンウィーク前の昼下がりでした。
(文=山本一郎)