あなたにとって「懐かしい」とはどんな情景でしょうか? 1970~90年代の「懐かしい」を集めたサイトが「ミドルエッジ」。あなたの記憶をくすぐる「懐かしい」から厳選した記事をお届けします。
今回のテーマは、沖田浩之。80年代を代表するアイドルとして活躍し、その後は演技派俳優として堅実な歩みを見せながら、99年に自殺してしまったその芸能人生を振り返ります。
今年3月に放送されたフジテレビ系のトークバラエティ番組『石橋貴明のたいむとんねる』で、人気女優のデビューCMを特集。そのなかで、子役時代の観月ありさが、当時19歳の沖田浩之と共演した森永製菓のテレビCMが放送され、Twitter上では「懐かしい」と話題になりました。
竹の子族のアイドルだった「ヒロくん」
80年代を代表する男性アイドルの1人だった沖田浩之。原宿の歩行者天国に集う竹の子族の一員としてパフォーマンスをしていた彼は、切れ長の目が印象的な不良っぽいルックスとすらっとした長身により、たちまち「ヒロくん」の愛称で竹の子族のアイドルになりました。
そんな「ヒロくん」の活躍を聞きつけた大手芸能プロ・スターダストプロモーションのスカウトを受けて芸能界入りし、『3年B組金八先生』(TBS系)の第2シリーズにおいて、複雑な家庭環境で育つ優等生・松浦悟を演じるとたちまちブレイク。1981年3月21日には、シングル「E気持(イーきもち)」でアイドル歌手としてもデビューします。
衝撃的だった「E気持(イーきもち)」
この「E気持(イーきもち)」、阿木燿子作詞の歌詞がなかなか強烈。「Aまでいったと ア……」「Bまで済んだと ア……」「Cまでスムース ア……」などと、一度聴けば表題にどんな意味が込められているかわかるフレーズが次々と繰り出されます。さらに、歌番組出演時におけるスクールメイツを引き連れて短パン姿でハツラツとパフォーマンスをする様は、『金八』で見せたクールなイメージとは真逆で、それが絶妙なギャップとなって大ヒットを記録しました。
大女優・山本陽子との「20歳差の熱愛」も話題に
その後もシングル13枚、オリジナルアルバム4枚をリリースするなどアイドル歌手として精力的に活動していましたが、1984年7月28日、新潟県民会館でのコンサートをもってマイクを置くことを宣言。以降、俳優一本に絞って活動していき、『新春仕事人スペシャル 必殺忠臣蔵』の浅野内匠頭役(1987年)、『徳川家康』の今川氏真役(1988年)など、時代劇を主戦場に活躍しました。一方、『3年B組金八先生』、映画『日本海大海戦 海ゆかば』で共演した三原順子と噂になったり、22歳の時に当時42歳だった大女優・山本陽子との「20歳差交際」のウワサが流れたりと、私生活でも話題を振りまいたものです。
1999年3月。36歳の若さで自殺して還らぬ人に……
1995年には英語通訳の仕事をしていた一般女性と結婚し、2人の子どもにも恵まれた沖田。俳優としては、尊敬する俳優・津川雅彦が代表を務めるグランパパプロダクションへ移籍し、1999年に放送されたTBS系列の人気ドラマ『サラリーマン金太郎』で、高橋克典演じる金太郎の前に立ちはだかる悪役・富岡修平を演じるなど、性格俳優として活動の幅を広げていました。
そんな直後に悲劇は起こります。『サラリーマン金太郎』第1期放送終了6日後の1999年3月27日、沖田は自宅で首吊り自殺を図り死亡。36歳の若さでした。なお沖田の家系では、1996年9月に企業経営者だった父が「自分の生命保険で、会社の損失を補填してほしい」と言い残して同じように首つり自殺をし、その父から経営権を引き継いだ兄も2002年4月に自殺。担当事件絡みの正当性を訴えて自殺した弁護士の祖父を含めると、沖田本人含め、3代で計4人の自殺者を出しています。
今年は、沖田氏が生きていれば56歳の年。今頃は、渋い演技派俳優として活躍していたであろうことを考えると、残念というほかないでしょう。
この連載では次回以降も皆さまの脳裏に「懐かしい」が蘇りそうな記事を提供して参ります。「こんな記事は?」「あのネタは?」なんてお声も、お待ちしておりますので、よろしくお願いいたします。
(文・構成=ミドルエッジ)
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