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「無駄な時間が9割」でも…開高健ノンフィクション賞受賞作家が語るフィールドワーク

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「無駄な時間が9割」でも…開高健ノンフィクション賞受賞作家が語るフィールドワークの画像1
※画像:『聖なるズー』(集英社刊)著者・濱野ちひろ氏

 動物との性愛という禁忌。その先に何があるのか。


 第17回開高健ノンフィクション賞を受賞した『聖なるズー』(集英社刊)は、とてもセンセーショナルな一冊である。


 著者はノンフィクションライターで、京都大学大学院に在籍する濱野ちひろさん。専門は文化人類学だ。


 濱野さんは4カ月にわたり単身ドイツに赴き、現地の動物性愛者団体「ZETA(ゼータ)」のメンバーたちにアクセスし、リサーチを行った。その方法は単純な聞き取り調査ではなく、彼らと生活をともにする「参与観察」という手法である。


 「ゼータ」のメンバーたちは自分たち動物性愛者のことを「ズー」と呼ぶ。そんなズーたちについてはインタビュー前編(※外部サイト「新刊JP」)を読んでいただくとして、この後編については、「研究者」としての濱野さんにフォーカスしてお話をうかがった。


※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。

 

■調査は無駄な時間が9割


――『聖なるズー』では参与観察という手法を使って、ズーたちの言葉や特性を見出していきます。私も実は社会学の分野で少し経験があるのですが、参与観察って対象者たちの生活に入り込んで、いわば同化しますよね。その中で「君は一体何者なんだ?」と問われることがあるんです。特にゼータメンバーへの参与観察は距離感の保ち方に戸惑いがあったのではと思うのですが。


濱野:その点については常に迷っていましたね。ただ、フィールドワーカーが100人いれば、100通りの参与観察の仕方があると思っています。


 王道の文化人類学の調査は、たとえばどこかの小さな村に入り込んでいって、年間を通して過ごす。季節ごとの儀式などを体験しながら、一年以上住み込むフィールドワーカーが多いと思います。村に入り込み、記述をしていくという方法です。


 私も文化人類学徒ですから、それに倣わないといけないというのはありましたね。でも、人によればズーと寝泊まりすることまではしなかったかもしれません。インタビューを中心とした調査もひとつの方法になるはずです。特にズーという人々は村を作っているわけではないですし。セクシュアリティ研究という特性上、彼らの家に寝泊まりまでしなくても、論文自体は書けたのかもしれないと思います。


――濱野さんは果敢にその中に飛び込んでいきました。


濱野:そうなんですよ(笑)。実際には、彼らのところに寝泊まりして本当によかったです。インタビューだけでは気づき得ない、さまざまな些細なことを彼らの日常を通して観察できたので。幸い、私が出会ったズーたちはすごく良い人たちで、そこには救われました。


 ところで、誰かと何日も一緒にいる場合、自分が研究者であるという役割に固執していたら、壁にぶつかる時があると思います。


 たとえばこの中にエドヴァルドという男性が出てくるんですけど、ズーのエドヴァルドではなく、一人の人間としてのエドヴァルドとして話をしました。彼にとっての私も同様でした。彼は、研究者としての私ではなく、一人の人間としての私と話してくれます。だから、2人で森の中を歩きながら語り合っていたとき、ものすごく重い話を打ち明けられたりもしました。


――それはズーの話とは関係なく。


濱野:まったく関係ないです。エドヴァルドが誰にも打ち明けられなかった話を聞いて、本当にかける言葉も見つからないくらいで。このとき、私は一人の人間としてエドヴァルドと向き合っていて、日々抱えている重さみたいなものを分けてもらっていると感じました。


 これはすごく誇らしいことですし、嬉しいことなのですが、研究者やノンフィクションライターとしての嬉しさではないんですよ(笑)。ひとりの人間としての嬉しさ。エドヴァルドにとっては、私の「研究者」とか「物書き」といった役割や肩書きは関係ないんだと、そのとき、とても強く思いました。


――リサーチに来たとは言っているけれど、それを越えて良き友人のような存在になっているわけですね。


濱野:そうですね。時間をかけて向き合ってきたから、徐々にそうなっていきました。ズーたちからは、「せっかくドイツに来ているのだし、遊びに行こうよ! 観光しようよ!」などとしょっちゅう言われますね。私と遊びたくて仕方ないんですよね。まあ、そんなことをしているとリサーチにならないんですが(笑)。


――その関係性が築けたからこそ、ズーたちの言葉を掬い上げられたのでは?


濱野:そうかもしれません。でも、おそらく端から見れば無駄に思える時間が9割ですよ。


――でも、全然無駄ではなかった。


濱野:無駄にはなりませんでした。とはいえ、現場にいるときはやっぱり不安でしたね。遊んでいるばかりで、何の収穫もないように思えちゃうから(笑)。


 でも、彼らが、私との関係性のなかでリラックスしているからこそ、ポロポロっと言ってくれる大事なことがあるんです。それをずっと心に溜めておいて、忘れちゃってもよみがえってくるようにして。もちろんメモもしますが、メモって自分が分かっていることしか書かないので、実はそこまで大きなひらめきを生まないんです。


 むしろ大事なのが、記憶の底に眠っている、その時気にも留めなかった言葉です。その言葉が後日ふとした気づきにつながることがある。


――例えばAさんがポロって言った言葉が、別のBさんから出てきたり。


濱野:もちろんそういうこともありますし、ドイツで聞いた言葉を日本に帰ってきてしばらくしてから「あの時そういえばこんなこと言ってたっけ。どういうことなんだろう?」と思い出すこともあるんです。それを次のフィールドワークで確認する。その繰り返しですね。


 大事なことはメモではないところに眠っている、という話は往々にしてフィールドワーカーたちが言うことです。もちろんその日何をやったというフィールドノートはつけますが、見返してもあまり発見がないんですよ。私のフィールドノートを見返すと、「今日もクヌーデル(ドイツの家庭料理)だった」とか愚痴が書かれています(笑)。


 でも、そんなフィールドノートも、何度もじっくり読み返すことで、記憶を引き出すきっかけにはなるんですね。そこから連鎖して「あ、そういえばこの時はこうだったな」と思い出して、新たな思考が生まれることもある。


 『聖なるズー』は本当に豊かに時間を使って書きました。2年調査を行って、修士論文を書いた後で、さらに半年以上かけてノンフィクションとして書き下ろしています。そう思うとすごく時間を使ったなと(笑)。でも、このテーマを人々に伝えるためには、そのくらい時間が必要だったのだと思いますね。

 

■「文化人類学は、必ずしも仮説が必要ではないという学問なんです」


――動物性愛というセクシャリティ研究をすると決めたときに、何かしら仮説であったり、問いであったりというものは持っていたのですか?


濱野:実はですね、文化人類学って調査をする際に必ずしも仮説は必要ではないとされているんです。私自身はそのような指導を受けました。


――えっ! そうなんですか? 現場に行って見つけてこい! というような感じですか。


濱野:そうですね。仮説に沿って調査するのではなく、調査のなかから問題を発見するんです。


 リサーチに来ましたと言うと、人々から「質問はなに?」って言われます。でも、そこで私は「申し訳ない。アンソロポロジー(人類学)というのは変な学問で、具体的な問題はリサーチしながら見つけていくんだ。だからたった今あなたに何を聞きたいというのはないんだ」とまず伝えるんですよ(笑)。


――それは面白いですね。ありのままのあなたを見せて、ということですよね。


濱野:そうなんですよ。相手はたいてい「は?」という様子ですけど、私のやり方に慣れてもらうところから始めます。アンソンポロジーは人々と一緒にいながら問題を見つけていく学問なんだと。だからとにかくあなたとしばらく一緒にいるよ、と。ご飯食べておしゃべりして、同じ家で寝させてもらいます、と。そんな手法なので、問いは最後の最後まで実はぼんやりしていました。


――すごく刺激的です。


濱野:仮説を立ててしまうと、そこに合わせたようなデータを取ってこようとしますよね。それはすごく恣意的なことなんだ、と。フィールドに飛び込んで思い切り混乱してきなさいと言われるんです。そして、ワケがわからない! という状態でフィールドから戻ってきて、いざ論文を書くときに、考えに考えて、最後にいろんなものがつながってくる。


――フィールドでは自分が持っている常識と常に戦っているわけですね。


濱野:まさしくそうです。フィールドでは、とにかく人々と一緒に過ごして、雑談を大事にして、みんなの話をずっと聞いています。それは、一般的なインタビューとは違うんです。


 インタビュー調査でQ&A形式にしてしまうと、理路整然とした回答ばかりが得られがちなんですよ。ズーへの質問の場合は、「どういうセックスをするの?」と聞いただけである程度、自分のなかの常識は壊れましたけれど(笑)、しかし、インタビューだけでは、つかみ取れない部分がある。彼らの日常生活に巻き込まれていくと、日々、自分の常識では理解しきれない場面に出会います。混乱に次ぐ混乱なんですが、混乱が大きければ大きいほど、手応えも感じます。混乱のなかに、問いが隠れているはずなので。


――前編にも登場しましたが、ミヒャエルはゼータという動物性愛者団体の中心人物ですよね。50代の男性で、キャシーというメス犬をパートナーにしている。でも他に飼っている猫には名前を付けていない。


濱野:これは謎だったので、その理由を聞いたんです。でも、ミヒャエルからの返事も私にはあんまり納得できるものではなくて。なぜだろうとずっと考えながら彼の生活を観察するのが、文化人類学的な面白さだと思うんです。そうこうしていると、ある日、「ミヒャエルの動物との付き合い方なら猫に名前を付ける必要はないんだ」とふと気づいて。それはフィールドの中で見つけた問いですね。調査中は、そうした細かい問いをずっと揉んでいるみたいな日々なんですよ。

 

■『聖なるズー』に対する様々な声にどう向き合っていくか


 本書に対しての評価はおおむね好意的だ。ただ、その一方で動物性愛に対する懐疑的な目を持っている人もいなくはない。


 これから『聖なるズー』はますますこの日本に広がっていくだろう。その時に、本書はどんな読まれ方をして、どんな声が上がるのだろうか。本として出版されたからこそ避けては通れない道について、濱野さんはどのように考えているのか。


 ◇


――おそらく、この『聖なるズー』はさまざまな読まれ方をなされると思います。賞賛の声が上がる一方で、批判的な意見も出てくるでしょう。濱野さんご自身はそうした声とどのように向き合っていこうとお考えですか?


濱野:この本が出て少しずつ私の元に感想が届くようになりましたが、嬉しい声もあるし、私自身が混乱してしまう声もあります。おっしゃる通り、読まれ方は人それぞれだという実感はありますね。


 こうしてインタビューしただいたときも、インタビュアーさんそれぞれ着目される点が違っていて、一様の読まれ方がなされない本だということを痛感しました。確かに私自身もこの本には論点をたくさん詰め込んでしまいましたけれど(笑)。


 だから、どの部分が議論の焦点になっていくのか、実はまだ予測がついていないんです。でもこの本を通して、いろんなことを議論してほしい。セクシュアリティのことも、性暴力のことも、身近な動物との関係のことも、その他のことも。そこで上がる批判の声は……覚悟しています。


――理解の手がかりとして個人的に分かりやすかったのが、第5章に登場するエドヴァルドとティナのカップルです。エドヴァルドがズーで、犬のバディというパートナーがいる。ティナはエドヴァルドの彼女で同居している。複雑な関係ですが、ティナはエドヴァルドがズーであることを理解しています。そのきっかけになったのが日本のアニメである『ワンワン三銃士』だったというのは、驚きました。


濱野:そうなんですよね。ティナは子どもの頃にそのアニメを見ていて、主人公の犬のダルタニヤンとセックスする夢を見た、と。エドヴァルドの打ち明け話を聞いて、ティナはその記憶を呼び起こすんですね。


――自分にもズー的な部分があると思ったから、エドヴァルドを理解できると。


濱野:はい。彼女は彼女なりの方法で、ズーを理解していくんです。彼女自身はそれまで、現実の動物に対して性的欲望を感じたことはなかったし、ズーというもの自体も知らなかったのに、アニメを通して覚えた感覚をきっかけに理解が進むところは、私も興味深く感じました。


――そして濱野さんが帰国されてから、ティナから「バディとセックスしたよ」というメールが届きます。素晴らしい喜びがあったと。濱野さんの「セックスではこの三者は排他的ではなく、むしろ三者が揃うことで成立する」というのは象徴的な言葉だなと。


濱野:そうですね。ティナとエドヴァルドとバディの関係性は複雑ですが、そこにあえて名前を付ける必要もないと思います。一つの言葉としてまとめてしまうのは簡単ですが、そうすると見落とすことがあまりにも多くなるのではないかと思うんですね。


 彼らが実践している生活が私にとっては大切です。二人と一頭は今後もその関係を続けていって、私はこれからもその様子を観察させていただくことになるでしょう。

 

■この本を出版できたのは、日本だからこそ


――動物性愛者の団体は世界的にもドイツのゼータだけだそうですが、それはドイツの国柄なのでしょうか。


濱野:その点については考え中ですが、国柄は関係しているでしょうね。一つは特に都市部ではセクシュアリティに対して解放的な風潮があること。もう一つは動物との近さがあります。ドイツは動物保護先進国といわれていて、動物を「モノ」として見ないという態度がドイツ人の中に根付いているんです。


 『聖なるズー』というタイトルは、かつてゼータの中心人物だったエドガーという男性が、今のゼータのメンバーたちの倫理観が強すぎることを揶揄して「やつらは“セイント・ズー”さ」と発言したその言葉を使っています。本書に登場したズーたちは、動物性愛者の中でも特に倫理的な人たちといえます。ただ、それでも批判の声は上がると思います。


――『聖なるズー』が本になったことについてゼータのメンバーは?


濱野:すごく喜んでいますよ。ズーが議論の俎上に載せられることが、彼らにとっては大きなことなんです。カミングアウトをせずに生きていくことはいくらでも可能な中で、彼らはわざわざ声をあげて、10年間組織としてやってきた。そこに私がリサーチに訪れて、本を書いた。彼らにとっては大ニュースなんです。


――しかも日本で、というところも。


濱野:そうですね。この本が出せて、賞までいただけて、理解を示してくれる方が早い段階からいらっしゃるということは、日本だからだと思います。日本には自然との連綿としたつながりを背景にした自然観がありますよね。動物と私たち人間は地続きのところで暮らしていて、どんな動物にも魂があるというのが、私たち日本人の考え方です。その部分では、ヨーロッパの人々よりも、ズーたちを理解しやすいように思います。


――記念碑的な一冊ですが、どんな人に読んでほしいですか?


濱野:当初は女性の読者に届けたいと思っていましたけれど、20代、30代、40代の方々からは男女問わず共感の声をいただいています。


 また、特に規範的ではない生き方を知っていたり、求めていたり、規範に反抗している人はすごく理解してくれますね。いろんな登場人物が出てきますが、誰かに共感できるのではないかと思います。ぜひ読んでみてください。(聞き手・構成:金井元貴)


※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。

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