
「週刊文春」(文藝春秋)が報じた賭け麻雀スキャンダルで、黒川弘務・東京高検検事長が辞任。名古屋高検検事長だった林真琴氏がその後任に決定し、これで次期検事総長の人選は、本来収まるべきところに収まることになりそうだ。
ただ、一連の騒動はなお、いくつかの課題を残している。今回はそのうちふたつを考えておきたい。ひとつは、記者の取材倫理の問題、もうひとつは、政治からの「独立性・中立性」にも関連する検察のあり方の問題だ。
記者を賭博行為に走らせたのは
今回のスキャンダルは、新型コロナウイルス対策として、緊急事態宣言が出され、人々が活動を制約されている最中に、検察のトップになろうとする人が、法律で禁じられている賭博行為であり、「三密」そのものである賭け麻雀に興じていた、というものだが、その相手が新聞記者だったことで、取材倫理にも厳しい目が向けられている。
取材行為に限らず、人々の倫理観は時代によって変化し、社会によって異なる。
30年以上前の話になるが、私が地方紙の新聞記者だった頃は、警察の記者クラブで、真っ昼間から各紙のキャップたちが、しばしば広報担当の警察官も交え、麻雀をしていた。外部の人に電話をする時、ジャラジャラという音が聞こえないようにと、受話器を手で覆ったりしなければならなかった。私は麻雀をたしなまないのでレートの高低などはわからないのだが、わずかながら現金も賭けていたようだった。
この時代には、そんな行為もとがめ立てされなかったし、そもそも記者クラブのなかなどといった新聞記者の現場や取材プロセスなどに、人々がさほど関心を持っていなかったように思う。
当時の社会の倫理観は、賭け事や飲酒、セクハラなどに甘かったが、今ではそうはいかない。さらに、多くの人たちがメディアを批判的に観察し、厳しい意見が発せられる。特になんらかの「特権」があると感じられれば、批判は辛らつ、かつ大量となる。記者会見での質問の仕方も含め、取材の過程に関心を寄せる人は増えている。メディアの側もコンプライアンスを意識する。
そんな今は、かつてのように記者クラブで麻雀に興じるようなことはあり得ない。にもかかわらず、記者の個人宅を舞台に、昭和を再現するかのような光景が展開されていたというのは、驚きだった。
今回は、産経新聞記者の自宅マンションが会場となり、同社の記者ふたりと朝日新聞の社員ひとりが相手だった。産経新聞社は、問題発覚直後から、これが「取材」であるとの前提でコメントを発信している。
ということは、同社記者のほうから「取材」の機会を作るために黒川氏を誘った、ということもあり得るのだろうか? 麻雀実施に至る経緯については、これを書いている現在、法務省側からも産経、朝日両新聞社側からも明らかにされていない。
産経新聞社の社内調査によれば、同社記者は「数年前から」「1カ月に数回のペースで」賭け麻雀をしていた。麻雀が終わると、記者が送迎用ハイヤーで黒川氏を自宅に送り、その車内で取材を行っていた、という。
一方、朝日新聞社は、当該社員が現在は記者職ではなく、麻雀が取材ではなかったことを繰り返し強調しているが、黒川氏と知り合ったのは司法担当記者だった頃だ。同社によれば、4人は5年ほど前に黒川氏を介して付き合いが始まり、この3年間に月2〜3回の頻度で賭け麻雀をしていた。
記者会見や公式発表だけでは明らかにならない情報を得るために、記者はさまざまな工夫や努力をする。自宅の前で帰りを待ち続け、なんとか電話番号を聞き出し、一緒に酒を飲んだりカラオケに行ったりする機会を作り、趣味にも付き合って取材源と親しくなり、できれば“ネタ元”となってもらおうと努める。
そうして、取材源を開拓する努力は否定しない。けれども、情報源と密接になるために、賭博行為を取り締まる側の者と一緒に賭け麻雀というのは、今の時代の倫理観にはまったくそぐわない。記者をこうした行為にまで走らせてしまった会社にも、責任があろう。
なぜ「産経新聞関係者」は他誌にリークしたのか?
もうひとつの取材倫理の問題は、今回の「週刊文春」のスクープが、「産経新聞関係者」によってもたらされたものだ、ということだ。取材源の秘匿は、報道機関にとっては生命にも等しい重要な取材倫理。それを「関係者」が破り、黒川氏を辞任に追い込んだことで、「産経新聞は取材対象から信用されなくなる」という声も聞こえてくる。
私が知る限り、「週刊文春」は取材源を徹底的に守るメディアだ。それがあえて誌面に「産経新聞関係者」と明記したのは、取材源がそれをむしろ望んだからではないのか。
なぜ「産経新聞関係者」は他メディアに情報を持ち込んだのか。そして、なぜ「産経新聞関係者」であることを明示したのだろう。
ひとつ目の疑問を考えているうちに思い出したのは、2年前に起きた、財務省事務次官によるテレビ朝日女性記者に対するセクハラ問題だ。当時の次官からたびたび呼び出され、セクハラを受けていた女性記者が、その会話を録音。上司に相談したが、自社では報道できないと知って、「週刊新潮」(新潮社)に音源を提供した。「財務次官という社会的に責任の重い立場にある人物による不適切な行為が表に出なければ、セクハラ行為が黙認され続けてしまうのではないか」と感じたからだった。