ビジネスジャーナル > 社会ニュース > 黒川辞任、なぜ「産経」がリーク?
NEW
江川紹子の「事件ウオッチ」第152回

黒川検事長辞任で残された課題…危惧されるメディアの“取材倫理”と“検察の独善”

文=江川紹子/ジャーナリスト
黒川検事長辞任で残された課題…危惧されるメディアの“取材倫理”と“検察の独善”の画像1
2020年2月19日、検察長官会同にて森雅子法相の訓示を聞く黒川弘務・東京高検検事長(当時)(写真:毎日新聞社/アフロ)

「週刊文春」(文藝春秋)が報じた賭け麻雀スキャンダルで、黒川弘務東京高検検事長が辞任。名古屋高検検事長だった林真琴氏がその後任に決定し、これで次期検事総長の人選は、本来収まるべきところに収まることになりそうだ。

 ただ、一連の騒動はなお、いくつかの課題を残している。今回はそのうちふたつを考えておきたい。ひとつは、記者の取材倫理の問題、もうひとつは、政治からの「独立性・中立性」にも関連する検察のあり方の問題だ。

記者を賭博行為に走らせたのは

 今回のスキャンダルは、新型コロナウイルス対策として、緊急事態宣言が出され、人々が活動を制約されている最中に、検察のトップになろうとする人が、法律で禁じられている賭博行為であり、「三密」そのものである賭け麻雀に興じていた、というものだが、その相手が新聞記者だったことで、取材倫理にも厳しい目が向けられている。

 取材行為に限らず、人々の倫理観は時代によって変化し、社会によって異なる。

 30年以上前の話になるが、私が地方紙の新聞記者だった頃は、警察の記者クラブで、真っ昼間から各紙のキャップたちが、しばしば広報担当の警察官も交え、麻雀をしていた。外部の人に電話をする時、ジャラジャラという音が聞こえないようにと、受話器を手で覆ったりしなければならなかった。私は麻雀をたしなまないのでレートの高低などはわからないのだが、わずかながら現金も賭けていたようだった。

 この時代には、そんな行為もとがめ立てされなかったし、そもそも記者クラブのなかなどといった新聞記者の現場や取材プロセスなどに、人々がさほど関心を持っていなかったように思う。

 当時の社会の倫理観は、賭け事や飲酒、セクハラなどに甘かったが、今ではそうはいかない。さらに、多くの人たちがメディアを批判的に観察し、厳しい意見が発せられる。特になんらかの「特権」があると感じられれば、批判は辛らつ、かつ大量となる。記者会見での質問の仕方も含め、取材の過程に関心を寄せる人は増えている。メディアの側もコンプライアンスを意識する。

 そんな今は、かつてのように記者クラブで麻雀に興じるようなことはあり得ない。にもかかわらず、記者の個人宅を舞台に、昭和を再現するかのような光景が展開されていたというのは、驚きだった。

 今回は、産経新聞記者の自宅マンションが会場となり、同社の記者ふたりと朝日新聞の社員ひとりが相手だった。産経新聞社は、問題発覚直後から、これが「取材」であるとの前提でコメントを発信している。

 ということは、同社記者のほうから「取材」の機会を作るために黒川氏を誘った、ということもあり得るのだろうか? 麻雀実施に至る経緯については、これを書いている現在、法務省側からも産経、朝日両新聞社側からも明らかにされていない。

 産経新聞社の社内調査によれば、同社記者は「数年前から」「1カ月に数回のペースで」賭け麻雀をしていた。麻雀が終わると、記者が送迎用ハイヤーで黒川氏を自宅に送り、その車内で取材を行っていた、という。

 一方、朝日新聞社は、当該社員が現在は記者職ではなく、麻雀が取材ではなかったことを繰り返し強調しているが、黒川氏と知り合ったのは司法担当記者だった頃だ。同社によれば、4人は5年ほど前に黒川氏を介して付き合いが始まり、この3年間に月2〜3回の頻度で賭け麻雀をしていた。

 記者会見や公式発表だけでは明らかにならない情報を得るために、記者はさまざまな工夫や努力をする。自宅の前で帰りを待ち続け、なんとか電話番号を聞き出し、一緒に酒を飲んだりカラオケに行ったりする機会を作り、趣味にも付き合って取材源と親しくなり、できれば“ネタ元”となってもらおうと努める。

 そうして、取材源を開拓する努力は否定しない。けれども、情報源と密接になるために、賭博行為を取り締まる側の者と一緒に賭け麻雀というのは、今の時代の倫理観にはまったくそぐわない。記者をこうした行為にまで走らせてしまった会社にも、責任があろう。

なぜ「産経新聞関係者」は他誌にリークしたのか?

 もうひとつの取材倫理の問題は、今回の「週刊文春」のスクープが、「産経新聞関係者」によってもたらされたものだ、ということだ。取材源の秘匿は、報道機関にとっては生命にも等しい重要な取材倫理。それを「関係者」が破り、黒川氏を辞任に追い込んだことで、「産経新聞は取材対象から信用されなくなる」という声も聞こえてくる。

 私が知る限り、「週刊文春」は取材源を徹底的に守るメディアだ。それがあえて誌面に「産経新聞関係者」と明記したのは、取材源がそれをむしろ望んだからではないのか。

 なぜ「産経新聞関係者」は他メディアに情報を持ち込んだのか。そして、なぜ「産経新聞関係者」であることを明示したのだろう。

 ひとつ目の疑問を考えているうちに思い出したのは、2年前に起きた、財務省事務次官によるテレビ朝日女性記者に対するセクハラ問題だ。当時の次官からたびたび呼び出され、セクハラを受けていた女性記者が、その会話を録音。上司に相談したが、自社では報道できないと知って、「週刊新潮」(新潮社)に音源を提供した。「財務次官という社会的に責任の重い立場にある人物による不適切な行為が表に出なければ、セクハラ行為が黙認され続けてしまうのではないか」と感じたからだった。

 経緯が明らかになり、テレ朝は「取材活動で得た情報を第三者に渡したことは報道機関として不適切な行為」と女性記者を非難する一方で、「適切な対応ができなかったことについて深く反省している」とコメントした。

 私は、テレ朝社員であると同時に、ひとりのジャーナリストである女性記者が、自社が報じないとわかった時に、大事な情報を他メディアを使って発信したことは、正しかったと思う。そうしなければ情報は眠ってしまい、卑劣な行為が看過されることになるからだ。それを非難したテレ朝のコメントは、報道機関として根本的なところで間違っている、と私は考える。

 今回、「文春」に情報提供した「産経新聞関係者」はどうだったのだろうか。なぜ産経新聞の身内であることを明らかにしたのかは、考えてみてもよくわからない。

 産経社内では、賭け麻雀の当事者となった記者ふたりへの調査だけでなく、「関係者」の割り出しなども行われているのではないかと思う。ただ、それは会社を裏切った「犯人」探しとしての追及ではなく、その人があえて「産経新聞関係者」として「文春」に情報提供するに至った経緯の調査であるべきであり、会社の対応は適切だったのか、という視点で行われるべきだし、その結果はきちんと公表してもらいたい。麻雀をするに至った経緯についても同様である。

 それが報道機関としての責任だし、「産経新聞関係者」はそのことも問うているのではないか。

忘れてはいけない“検察の暴走”

 黒川氏が辞任した後は、彼の定年を延長した政府の責任追及や国家公務員の定年延長法案の行方などに、野党やメディアの関心は移行した。

 これらの課題も大事だが、法案を巡って関心が高まった、政治からの独立を含む検察のあり方についての論議を置き去りにしてはならない。

 黒川氏の定年を法解釈の変更によって無理やり延長したうえ、法相や内閣の判断で検察幹部の定年を延長できるとする法案が提出されたことで、検察の政治的な「独立」が危機に瀕していると、多くの人がネットなどで声を上げた。さらに、検事総長経験者を含めた“ロッキード世代”の検察OBが、意見書(ここではOB意見書Aとする)を提出。続いて、元東京地検特捜部長ら38人が「元特捜検事有志」として意見書(同じくOB意見書B)を発表し、やはり反対を表明した。

 検察幹部OBが、法務省提出の法案に異を唱えること自体珍しく、法案反対への追い風にもなるとあって、ネット上ではOBらへの絶賛や共感の言葉が飛び交った。

 確かにOB意見書Aは、17世紀のイギリスの思想家ジョン・ロックの「法が終わるところ、暴政が始まる」という言葉を引くなど、格調高く含蓄に富み、その内容は、私もおおむね納得がいくものだった。

 ただ、これまでの歴史においては、強い捜査権限を持った検察が暴走し、無理な取り調べで死者まで出したこともあった。

 たとえば、強制捜査開始から10年後に、最高裁で無罪判決が出て確定した長銀事件。旧日本長期信用銀行の経営者3人が粉飾決算の容疑で東京地検特捜部に逮捕された。当時、取り調べを受けていた長銀関係者は、検察は自分たちのシナリオに沿った自白を求めるばかりで、それと異なる事実の説明には一切耳を貸さなかったことなど、その無理な取り調べの実態を本に書き記している。そうした取り調べを受けていた銀行関係者ふたりが、自ら命を絶つ悲劇もあった。

 意見書は、こうした過去の暴走については言及していない。

 OB意見書Aは、厚生労働省局長だった村木厚子さんを逮捕した大阪地検特捜部主任検事が証拠改ざんまで行った不祥事には触れてはいる。ただし、それをもって「後輩たちが、この事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないか」と案ずるところなどは、心配することがらが違うのではないか、と思う。

 案ずるべきは、村木さんの事件を経てもなお、逮捕されていない段階での任意の取り調べや参考人事情聴取などでは相変わらず録音録画も行われず、検察のストーリーに基づいた無理な取り調べがあったと訴える例があることだろう。

検察のあり方についての議論を

 OB意見書Bに至っては、過去の検察の暴走には一切触れず、今回の法案が「検察の独立性・政治的中立性と検察に対する国民の信頼を損ないかねない」点のみを強調している。

 この意見書に名前を連ねた熊崎勝彦氏が東京地検特捜副部長として指揮をしたゼネコン汚職事件の捜査では、検事が取り調べていた参考人に暴力を振るい、特別公務員暴行凌虐致傷罪で有罪にまでなっている。

 同じく有志のひとりである大鶴基成氏が東京地検次席検事時代に捜査した陸山会事件では、内容虚偽の捜査報告書を検察審査会に提出。小沢一郎氏は強制起訴に追い込まれたが、東京地裁は無罪判決のなかで、検察の捜査を厳しく批判した。

 先に挙げた長銀事件で主任検事を務めた佐久間達哉氏も、意見書Bに名前を連ねている。

 自分たちが関わったそうした「検察の暴走」に関しては一切目をつぶったまま、OBらが「検察の独立」や「国民の信頼」を語っているこうした意見書を、絶賛するだけでよいのだろうか。

 黒川氏の定年延長や今回の法案を巡る論議で明らかなように、検察の「独立」は大事だ。しかし、それが権力の暴走を招き検察の「独善」となるならば、注意しなければならない。

 それを考えれば、人事のあり方についても、検討をしてみることは必要なのではないか。現在は、検事総長次長検事、高検の検事長らは、内閣が任命し、天皇が認証を与える。その間に、国会の承認を経る、というステップを踏むのも、ひとつのチェックのあり方だろう。

 また、刑事手続きについても見直しは常に必要だ。たとえば、任意の取り調べや参考人の事情聴取は、少なくとも調べられる側が要求した場合には、録音録画、もしくは録音だけでも必ず行うようにすることなど、捜査における暴走への歯止めについても、きちんと検討すべきだろう。

 さらに、冤罪の被害者が再審請求を行っても検察側がなかなか証拠開示を行わないなど、真相解明に非協力的な場合もある。具体的なルールが決められていない再審請求について、きちんとした手続きを定める法律の制定が急がれる。

 このように検察には、政治から干渉を受けずに「独立」を保ちつつ、「独善」を防ぐ仕組みが要る。検察のあり方についての議論は、黒川氏の辞任で終わらせず、むしろ積極的に行ってほしい。

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


Facebook:shokoeg

Twitter:@amneris84

黒川検事長辞任で残された課題…危惧されるメディアの“取材倫理”と“検察の独善”のページです。ビジネスジャーナルは、社会、, , , , , , の最新ニュースをビジネスパーソン向けにいち早くお届けします。ビジネスの本音に迫るならビジネスジャーナルへ!