
この連載で徳川家の将軍を扱うのは3人目になる。これまでに、江戸幕府を開いた徳川家康とその直系の孫である第3代将軍の徳川家光を取り上げたが、家光には明らかにうつ病の兆候がみられた。
今回のテーマである徳川綱吉は、江戸幕府の第5代将軍である。その在位は、1680年から1709年であった。綱吉は、第3代将軍であった家光の4男で、1646年に生まれている。彼は15歳から館林藩の藩主をしていたため、館林宰相と呼ばれていた(実際は江戸に住んでおり、館林に出向くことはほとんどなかったようだが)。
綱吉は、兄である第4代将軍の家綱に世継ぎの男子がいなかったため、家綱の死後、急遽将軍職を継ぐこととなった。けれどもこの継承は、すんなりとはいかなかったようである。血縁からみれば綱吉は有力な候補であったが、当時の実力者であった大老・酒井忠清がこれに反対したという話が伝わっている。
酒井は、綱吉を「天下を治させ給ふべき御器量なし」と評し、皇族を将軍に迎えることを主張したと伝えられているが、彼の反対した本当の理由は明確ではない(あるいは後述する綱吉の身体的な特徴を問題にしたのかもしれない)。
最終的には、老中であった堀田正俊の推挙により、綱吉の将軍後継が決定したらしい。綱吉は将軍となった後、酒井忠清については病気を理由にして更迭した。
綱吉の生きた時代は、いわゆる元禄時代である。260年に及ぶ徳川家の治世の中でも、繁栄を極めた時期だった。さらに、文化的にも成熟した時代であった。ちなみに「元禄」とは元号であり、1688年から1704年までの期間である。
この時代は、学者、政治家であった新井白石、俳人の松尾芭蕉、『好色一代男』などの浮世草紙で知られる井原西鶴、人形浄瑠璃や歌舞伎作品で高名な近松門左衛門、「見返り美人」を描いた浮世絵師の菱川師宣などの著名人を輩出している。
また、赤穂浪士の討ち入り事件(忠臣蔵、1703年)が起こり、豪商・紀伊国屋文左衛門が活躍したのも、この時期であった。
将軍就任後も幾度となく実母を尋ねた綱吉はマザコンだった?
綱吉の生母であるお玉(桂昌院)は、もともとは京都の町人の家に生まれたらしい(1627年生まれ)。父が早世したため、お玉の母は関白家の家司である本庄宗利の家に仕えて住み込みで働いていたが、後に宗利の後妻となった。
お玉は、13歳で公家である六条有純の娘(後のお万の方)の部屋子となった。お万の方が家光の側室として大奥に入ると、それに従ってお玉も江戸に移った。その後家光の目にとまりお玉自身も側室となり、綱吉を産んだ。
家光の死後、お玉は綱吉と江戸の神田にあった館林御殿での生活を続けた。綱吉が第5代将軍になったとき、お玉も江戸城に移り住んだ。お玉は、1705年に79歳で亡くなり、芝の増上寺に葬られた(戦後になって、遺骨の発掘と鑑定が行われた)。
綱吉とお玉の母子関係は密着しており、綱吉が将軍に着任してからもその関係に変化はなかった。『骨は語る 徳川将軍・大名家の人々』(鈴木尚著、東京大学出版会)には次のように記載されている。
「将軍綱吉は、毎日のように近臣を使者としてご機嫌を伺わせ、また政務に暇があるときには自ら彼女を訪ねたり、猿楽をかなでたり、絵を書いてご覧に入れたり、調度品、彩帛(さいはく)の類で気に入ったものがあると差上げたり、さらに三の丸の彼女を本城に迎えたときは、自らお供し、専ら桂昌院の心に違わないことを旨にしたという」