
ドイツ・ベルリンの公有地に設置された慰安婦を象徴する少女像は、日本側の要求で、地元自治体が撤去を求めたものの、像を設置した韓国系市民団体が異議を申し立て、当面は設置が継続されることになった。日韓慰安婦問題に関しては、第三国であるドイツを巻き込む新たな懸案事項となっている。
運動のシンボルとなってしまった「少女像」
報道によれば、ドイツ国内の慰安婦像は3体目だが、公共の場所に設置されるのは初めて。韓国系市民団体「コリア協議会」が「日本軍慰安婦問題対策協議会」を作って設置を推進し、韓国の「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連・旧挺対協)」が製作を支援して、9月28日に除幕式が行われた。
ベルリン市ミッテ区が10月8日に設置許可取り消しを発表し、同月14日までの撤去を求めた。茂木敏充外相がドイツのマース外相との電話会談の際に対応を要請していた、と報じられている。
これに対し、コリア協議会が区への異議申し立てや裁判所への申請をするなど強く反発した。さらに、シュレーダー元首相とその妻で韓国系のキム・ソヨン氏がミッテ区に像を撤去しないよう要請。キム氏は日本政府を強く非難し、「ドイツの官庁が日本の戦争犯罪の隠蔽に加担してはならない」と求めた、と韓国メディアは伝えている。挺対協・正義連で長く理事長を務めた尹美香(ユン・ミヒャン)氏をはじめとする韓国の国会議員113人が、区の撤去要請に抗議する書簡を在韓ドイツ大使館に送るなど、韓国側も強い反応を示した。
板挟みになったドイツのミッテ区は、裁判所の判断が出るまで撤去に向けた動きはしないとし、「日韓が折り合える妥協案を望む」と述べた。しかし、そのような妥協案を見つけるのは難しい。やっかいな問題だ。
ドイツの地元当局の発表では、この像は「戦時下の女性への性暴力に抗議の意思を示す芸術作品」という説明があり、設置を許可したとのことだ。
問題について不案内なドイツの人たちにはすんなり受け入れられたのかもしれないが、私は設置者側のこの説明に、強い違和感を覚えずにはいられない。
あの慰安婦像は、旧日本軍の慰安婦問題に関して日本を抗議・糾弾する運動のために作られ、実際に9年にわたって、その役割を存分に担ってきた。その結果、「平和の少女像」というタイトルとは逆に、この像ができて以来、日韓で人々の反感や不信、憎悪はむしろ膨らんでいる。原因は慰安婦問題だけでないが、それによる両国の感情的なぎくしゃくや対立は根深い。原作者の意図はどうあれ、この像はもはや日韓対立のシンボルでさえある。
特定の役割を担い、平和ではなく不和の象徴となっている像が、「戦時下の女性への性暴力」という普遍的なテーマを扱うのにふさわしいのだろうか。
しかも、その運動を率いてきた正義連などは、寄付金の不正流用が発覚するなど、元慰安婦を「食い物にしてきた」という批判も起きている。挺対協の時代から、日本政府による慰安婦問題の調査、あるいはアジア女性基金による元慰安婦の方々への償いなど、実態解明や被害者救済を妨害する行動も続いてきた。
そんななか、運動のシンボルでもある像を、しかも問題とは直接関係のない国に広げ、日本がこれについて何もしてこなかったような誤解を広めようという活動の仕方にも抵抗を感じる。
それに、ドイツを訪れた時に、この像に出くわすようなことになったら、きっといい気持ちはしないだろう、とも思う。
こうした諸々の違和感があって、私自身はこの像が撤去されることを望んでいる。
その一方で、この問題について、日本政府には慎重な対応をしてもらいたい、と強く求めたい。ドイツ側に新たな要請をするとしても、その説明は十分に検討を要する。いくつか、気をつけてもらいたいポイントを挙げたい。
日本の評価を貶める右派の自説
まず、「強制性はなかった」と強調することは愚策だ。かつて櫻井よしこ氏らの「歴史事実委員会」がアメリカの新聞に意見広告を出して「強制はなかった」と主張したが、ドイツでこうしたふるまいをすれば、反感を買うばかりか、日本の品位を貶めるだけだ。
「強制」は、住んでいるところから力尽くで誘拐するような、有形力の行使だけを意味するわけではない。よい仕事があるかのよう誘われてだまされた、逃げたくても逃げられない環境だった、という当事者の訴えからは、「強制性」があったと見られるのが当然だろう。1993年の河野洋平官房長官による談話(いわゆる「河野談話」)でも、「総じて本人たちの意思に反して行われた」と述べられている。
日本も、北朝鮮による拉致事件の被害者は、横田めぐみさんや曽我ひとみさん、蓮池夫妻など、生活圏から力尽くで連れ去られた者だけではなく、だまされてヨーロッパから北朝鮮に連れて行かれた者も含めている。当然だ。だましによって、自由で健全な判断を阻害し、人を連れ去って監禁するのは、強制的な連行に等しい人権侵害であり犯罪行為だ。
慰安婦問題において日本が強制性を否定すれば、その一貫性のなさを見抜かれ、「責任を回避している」と見られるに違いない。