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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

オーケストラは“密”が超重要、コロナ禍の苦悩…ウィーン・フィル、驚異の感染対策

文=篠崎靖男/指揮者
オーケストラは密が超重要、コロナ禍の苦悩…ウィーン・フィル、驚異の感染対策の画像1
「Getty Images」より

 今年1年の世相を漢字1文字で表す「今年の漢字」が、今月14日に発表されました。今回、20万8000票の応募のなかから選ばれたのは、「密」。京都市東山区の清水寺の森清範貫主によって、見事にその1文字が書き上げられたニュース映像を見られた方は多いと思います。

 今年は、三“密”という言葉が、避けるべきものとしての生活常識として日本国内に浸透したのでなるほどと思ったのは、凡人の浅はかな考えでした。三密の“密”だけではなく、「離れていても、オンラインなどで大切な人との関係が“密”接になったこと」、そして「政界や芸能界では、内“密”や秘“密”が多かったからだ」と解説されています。

 ちなみに、すっかり忘れていましたが、昨年の漢字は「令」。これも、“令”和時代の始まりだからというだけでなく、消費税増税などの法“令”改正や、多発した水害による警報発“令”、避難命“令”も関係しているとのことでした。今年は、コロナ渦で大変な1年でしたが、台風上陸が一度もなく、水による大災害が無かったことは幸いでした。

 他方、この“密”に関して、オーケストラ・サウンドをつくるうえでは大切な要素だと教えてくれたのは、今や世界最高の音響設計士と評されている豊田泰久さんです。オーケストラの楽員同士が“密”になったほうが、お互いの音が共鳴しやすくなり、サウンドがまとまるのだそうです。僕も指揮者としてオーケストラの音を聴き続けてきましたが、これは事実だと実感してきました。

 しかし、これが今年は難しくなってしまいました。もちろん、日本政府が推奨している人間同士のソーシャルディスタンスは、オーケストラにも当てはまります。そんなわけで現在、ステージマネージャーは、奏者同士の安全を保つことができる距離を正確に測りながら、舞台上の椅子と椅子、つまりは楽員同士の距離を通常よりもかなり長めにとって設営するという、大変な作業を続けています。

 とはいえ、サッカーや野球、ラグビーのように人間同士の距離を常時コントロールすることが不可能な集団スポーツとは違い、オーケストラは椅子とともに楽員が動くことはないので、確実にソーシャルディスタンスを守ることができます。

 もともと、クラシック・コンサートでは、観客も声を発したり踊りまわったりするようなことはありませんし、マスクをして静かに聴いているので、今のところコンサート会場で感染者が出たという話は聞いていません。ただ、少々サウンドには影響があっても、“密”になれないことは確かです。

ウィーン・フィルの驚愕の感染対策

 そんななか、今年はアッと驚くことがありました。世界中の国々で、どこも開催することができなかった海外オーケストラのコンサートツアー。何よりも、欧米ではコンサート自体が中止されているところがほとんどですが、世界で最高のオーケストラのひとつとして有名なウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が来日して8回のコンサートを開催したことは、大きな話題になりました。

 しかも、ウィーン・フィルは、「しっかりと“密”で演奏しないことには、自分たちが大切にしてきたサウンドをつくれない」としてソーシャルディスタンスを無視します。その裏では、そこまでやるかというくらい入念な準備を重ねてきたからこそ実現できたのです。

 彼らは6月以降、自主的に行ってきた“4日に一度の全楽員対象のPCR検査”を、日本滞在中も継続。来日に当たって、ウィーンからの飛行機はチャーターし、日本国内においても、もちろんバスは貸し切り。新幹線も一車両貸し切って移動したのち、滞在先のホテルに到着しても、毎回楽しみにしていた寿司を食べに行くどころか、一歩も外出することを許さず、ホテルから出るのは、バスでのコンサートホールの往復のみ。

 観客にウィーン・フィルの特別なサウンドを聴かせるために、彼ら自身で自主隔離して、ただ演奏するためだけに日本に滞在していたそうです。もちろん、日本側の感染対策ルールも、ステージ上の“密”以外はしっかりと守っていたことは言うまでもありません。その結果として、今年のクラシック界のハイライトとして、世界最高のウィーン・フィル・サウンドが多くの日本の観客を感動させてくれたのでした。

 ちなみに、オーケストラ・サウンドには必要な“密”ですが、オーケストラ楽員にとっては快適ではないこともしばしばあるようです。特に、弦楽器は弓で弾くので、腕を横に大きく動かすために、隣の奏者が近いと肘が当たりそうになって気になってしまいます。そこで「もう少し広めに椅子を並べてくれないかなあ」と、ステージマネージャーにお願いすることは、ありふれた情景です。

 とはいえ、1人の楽員の願いだけを聞くわけにはいかず、仮に受け入れたとすると、サウンド云々の前に、ほかの奏者の場所が狭くなってしまうこともあります。そこをどうやって乗り切るのかは、ステージマネージャーの経験が物を言います。

楽員同士の仲の悪さが観客にまで伝わって……

 これが肘の問題だけで終わればいいのですが、隣の奏者とどうしても折り合いが悪いこともあります。弦楽器だけでなく管楽器でもよくあるようですが、人間関係というよりも音楽づくりが少し違ったり、音程が微妙に合わない仲間の横では弾きにくいという実際的な問題です。「今週の人はやり易いけど、先週の彼はやりづらかったよ。人柄は良いんだけどね」といった声が聞こえてきたりすることもあります。もちろん、そんな事情を微塵も感じさせないのがプロのオーケストラですが、それでもなお、観客にまであからさまにわかってしまったことがありました。

 僕が首席指揮者を務めていたフィンランドのオーケストラでのことです。彼らとは8年間も一緒にやってきましたし、今でも毎年、指揮をしているので、楽員一人ひとりのことは、演奏技術だけでなく、プライベートまで知っているくらいです。そんなオーケストラで、ホルン1番奏者と2番奏者の仲が悪かったのです。とはいえ、いつも仲が悪いのではなく、まるで長年連れ添った夫婦のように、仲良くなったり、悪くなったりを繰り返していました。

 そして、それがはっきりとわかるのは、彼らの椅子の距離でした。通常、ホルンはお互いの音を聴き合うために、かなり近寄って演奏しているのですが、彼らの仲が悪い時には、それこそ2mくらい離れてしまうのです。そうなると楽器同士が共鳴しなくなるので、音楽的にも問題です。そこで、指揮者の僕は無言で「もう少し近づいて」と指で指示をしていました。そうすると、2人ともムッとした顔をしながら仕方なく近づくのでした。それでも“密”といえる距離ではありませんでしたが。

 さて、今年も僕の連載を読んでいただき、ありがとうございました。「今年の漢字“密”」を書かれた清水寺の森貫主のお言葉を、今年の最後の文章にいたします。

「漢字を本尊に供え、世界的な新型コロナの被害でお亡くなりになった方のご冥福を心からお祈りし、来年はぜひ良い年でありますようにと祈念しました。密という字には“親しみ”という意味が含まれているので、物理的には離れても心はさらにしっかりしたつながりを持っていきたいです」

 皆様、良いお年をお迎えください。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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