今、田舎暮らしが流行る本当の理由…現代人が抱える「監視の目から逃れたい」という本音の画像1
人里離れた山奥にある寺院。筆者はここの禅寺で悲しみを癒やした

 私が関東西部の人里遠く離れた奥の禅寺に籠もったのは、2016年の12月12日。先妻とのひとり息子を病で失った、わずか3週間後のことである。もはや都会の雑踏が煩わしかった。世間にあふれるおびただしい情報や雑多な人々の情念に巻き込まれるのも、苦痛に思えた。

「誰にもかまってほしくない」――。その想いだけに突き動かされて、逃げ込んできた禅寺。ここは、周囲10km圏内に人家が1軒あるだけの、野生動物が跋扈する文字通りの秘境の地だった。

 寺院を守るのは、住職ただひとり。他に4頭の犬が境内外の住職宅に暮らすだけで、私には「独りでいられる」本殿の大広間を与えられた。以来、私はこの静謐の地をたびたび訪れては、世間から隔絶された安穏とした日々の中で、喪失感に煩悶しながらも、徐々に心癒やされていく。

 大自然に漂う霊気には、やはり人の心を癒やす力が潜んでいるのか。樹木などが発散する「フィトンチッド」という化学物質には、血圧を緩やかに下げ、ストレスを50%以上も軽減させる働きがあるという。また、自然環境そのものが脳内ストレスホルモンの「コルチゾール」の分泌を軽減し、リラックス感をもたらすアルファ波を活性化させるという研究結果も残されている。

 もっとも、私が最も心地よく感じたことと言えば、「あるがまま」の自分を「あるがまま」に受け入れてくれる自然の優しさそのものだったかもしれない。

 植物や樹木は、私たち人間に与えることしか知らない。土中では栄養分を取り合うなど、熾烈な闘いを演じているものの、私たち人間に対しては安らぎや慰めを与えるだけで、いささかの代価も求めようとしない。野や庭に咲く花は、栄養が枯渇すればしぼみ、水がなくなれば涸れて死んでいく。私たちがその世話を怠っても、誰を責めるわけでもない。

「あるべき」姿を強要し、そこから逸脱した者に断罪を下す群衆社会とは、そこが決定的に違った。

水道・修繕箇所・地盤・価格――条件を満たした築30年の山荘

 やがて、私は住職不在時の留守番を任され、この秘境の禅寺を我が家のように使えるようになった。他人の目に晒されることのない、「独り在る」時間がふんだんに私に与えられた。

 とはいえ、禅寺は私の所有物ではない。どこかで遠慮があることも事実だった。住職は「ここがそんなに落ち着くなら」と、使われていない平屋の離れをセカンドハウスとして提供するとまで言ってくれたが、私の遠慮する心が依然として、その好意に抵抗を示した。

 そんなある日、禅寺からの帰京の途中で、当地の不動産会社が掲げる「田舎物件」の看板が目に入った。考える間もなく、私はその不動産会社の駐車場に車を滑り込ませていた。

「なるべく安く、できれば誰もいない静かなところがいい」

 私の要望で担当者が案内してくれたのは、標高450mの山中の別荘地帯にある平屋の山荘だった。三方を鬱蒼とした森に囲まれ、西に大きく開けた閑寂の地。プラモデルのような街並みが眼下に小さく見え、そのはるか向こうには、シルクハットのような名山の頂が西日を浴びて赤く染まっていた。

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